ギャラリーGANの「IMAI・エロチカ」展

●しかし、何よりも凄いのは、ギャラリーGANの今井俊満だった。昨年、ガンで余命数ヶ月と宣告され、すでに「サヨナラ」と題された展覧会や「フィナーレ」と題されたイヴェントが行われてしまっているのだが、その後も、身体の器官の多くを摘出されながらも奇跡的に生き続けて、しかも制作を精力的につづけているという今井氏の新作は、昨年の「サヨナラ」展でみせた『エロチカ』の、野放図で自由で人を食っていて明るくて乾いている性の饗宴から、またさらに一歩突き抜けていて、どこまでも明るくて一点の陰りもないのと同時に、殺戮と惨劇の匂いも漂わせているというような、どうにも言葉では表しようのない「物凄い」ものなのだった。正直ぼくは、画家としての今井俊満をそれほど高くは評価してはいないのだが、半分死にかけていると言ってもいい、まさに最晩年に、ここまでの作品が産み出せるというのは、やはりとてつもなく大きくて偉大な人なのだなあ、と恐れ入るしかない。

昨年の12月に行われた「サヨナラ」展では、巨大な画面に自由闊達な線で、携帯に厚底ブーツのシブヤのコギャルたちによる、果てることのない性の営みが縦横無尽に描かれていて、観る者すべてを唖然とさせるものだった。しかしそこには風俗に対するハンパな目配せや、彼女たちに性的に強く吸引されながらも、自らの面目を保つために眉をひそめてみせたりするオヤジ的なセコイ心性など微塵もなく、まさに今や死につつある画家今井が、描くことによってコギャルに、と言うかコギャルを貫いている性的なエネルギーそのものへと「生成変化」しているとしか言い様のない、晴々とした、アッケラカンとしたナンセンスの強度に満ちていたのだ。そこには、我々がつい囚われてしまう「萌え」などという感情がいかにセコいものであるかが、乾いた風の吹く世界の向こう側からガハハと豪快に笑いとばすように示されている。とは言っても、ここで描かれる「女たちの饗宴」はあまりに理想化されたものであって、こんなものは半分あの世からこっちを観ているような老人だからこそ描けるようなものに過ぎない、と言えてしまうような側面もあるにはあった。(晩年の今井氏は一方で陰惨な「戦争(広島や南京)」をテーマにした作品も制作していて、つまり「男たちの世界」である「陰惨な戦争」が一方にあり、それに対してやや理想化されているきらいのある「女たちの世界」としての「性の饗宴」があり、21世紀は「女たちの世紀」になるとのことなのだが、実際には残念ながら、21世紀も「男たちの戦争」によって染め上げられてしまいそうな気配が濃厚なのだった。)

しかし、今年になって制作された2m×10mにも及ぶ大作『The para para dancing』は、理想化された性の饗宴が自由闊達にアッケラカンと描き出されているというものとは少し違った様相を帯びている。巨大な画面のなかでパラパラを踊っている、服を着ていたり裸だったりするコギャルたちを描き出す描線は、自由闊達というよりは混沌という感じが強くなっており、ダンスする女の子たちの身体も、見方によっては歪んだようにねじ曲げられ、バラバラに切断されているようにさえ見える。そこにさらに、『egg』から切り取られたようなコギャルの写真やエロ写真、浜崎あゆみの写真などが、部分対象のように切り刻まれて夥しくコラージュされている。この大画面に夥しく乱舞する切り刻まれたような身体や線は、まさにガン細胞の摘出のためにそこいらじゅう切り刻まれた今井氏の身体とコギャルの身体との連結によって産み出されたのだろうが(しかしそれは同時に増殖するガン細胞そのものでもあるように見えもする)、ここでは最早、生=性の実験=探究としての「女たちの饗宴」がただ謳歌されているだけでは済まなくて、そのような生の探究が同時に「死」と隣り合わせにある他ないという所にまで至っている。しかしここでの「死」とは、文学的、哲学的な、つまり人間的な色彩に染まった死ではなく、たんなる器官の切断であったり、機能停止であったり、崩壊であったりするような死であって、それはどこまでも明るく乾いていてどのような暗さとも湿気とも無縁のものだ。抽象表現主義的なオールオーヴァー風描線で描かれるコギャルたちの身体の形態は、形態が図として閉じてしまうことなく画面のなかで地の部分と分離せずにつながっている。それはコギャルたちの行う生=性の探究がそのまま死と地続きであることに対応しているだろう。死とはたんにある器官の運動の停止であるに過ぎない。物理的な世界においては生も死も同等なのだ。生と死の境界線を彷徨いながら、描くという行為によって、ダンスするゾンビのような身体(或いは、たんなる肉塊)へと生成変化する画家今井。

『The para para dancing』という作品が、普遍性をもった「傑作」と言い得るのかどうかは正直ぼくには判断が出来ない。ただそれを目の前にして呆然自失するだけだ。しかしとにかく、これだけのものはそうそう観られるものではないということは確かだ。こういう人がいて、こういう作品があり、こういう体験が出来るからこそ、「芸術は偉大なのだ」という、大時代的なことを胸を張って言うことができるのだ。