デプレシャンの『エスター・カーン めざめの時』

日比谷シャンテ・シネでデプレシャンの『エスター・カーン めざめの時』。この映画については、ちょっと別の場所に書くかもしれないので、ここでは少ししか触れない。(でも、こんな言い方が、あまり増えてしまうと、この日記の意味が無くなってしまうのだけど。)

雑誌『ユリイカ』に掲載されていたこの映画についてのデプレシャンのインタビューで、アサイヤスの『感傷的な運命』との類似を指摘されたデプレシャンは、友人の映画について語るのは難しいと前置きをした後、『感傷的な運命』の主人公は(例えば「夫婦喧嘩はするな」と言う言葉を金科玉条にしているような)保守的な男であって、保守的な男というのは結局伝統の犠牲となってしまう(それが「運命」と言うことなのか?)のに対して、エスター・カーンは何かに向かってまっすぐ進んでゆくような反逆児(伝統から外れてゆくようなベクトルをもった存在)なのだと言っていて、つまり「友人」であるアサイヤスに対してハッキリ批判的な態度を表明している。そしてこの態度の違いは、かなり大きなものであるように感じる。

アサイヤスの映画は観ていなので例を変えるが、例えばぼくは、天沢退二郎が訳しているアンリ・ボスコという作家(『マリクロア』『シルヴィウス』『骨董商』など)が結構好きで、時々うっとりと読んでしまったりするのだが、ボスコが描いているのは言ってみればある共同体なり一族なりと言うものが持っている「時間」や「記憶」の圧倒的な厚みや豊かさのようなものであり、そこにあるのは「伝統」というものの豊かさのなかに埋没しているような「個」の姿である。と言うかボスコは始めから「個」としての人物を描こうとはしていなくて、ここで柄谷行人の口真似をするならば、ボスコは、個別的なもの(個)と一般的なもの(類)を結合するような中間項としての一族や共同体(つまり「民族」)の「記憶=伝統」を描こうとする、ヘーゲル的な作家なのだと言えるかもしれないのだ。ボスコの小説は、とても濃密で豊かなニュアンスに富んだ「物質」で満たされているのだけど、その「物質」は唯物論的なものと言うよりも、共同体の記憶=伝統の内部に、記憶=伝統と分かち難く結びついた物としてあるような「物質」であって、だからこそ無限に豊かなニュアンスと共に存在することができるのだろう。(ロマン派的な民族の「記憶」による、豊かな「物」。)ぼくという個人は、そのような「豊かなニュアンス」に対してちょっと過剰なくらいに反応してしまうようなところがあるのだけど、つまりはそういう心性を「保守的」と言うのだし、そういう「保守的な男」は共同体の記憶のなかに埋没してしまうしかなく、「結局伝統の犠牲となってしまう」しかない、とデプレシャンは批判的に言っているのだ。

周知のように柄谷は、ヘーゲル的な、個別性-一般的性という対立に対して、カントによる、単独性-普遍性という対立をおく。そして、個別性と一般性の間を繋ぐには媒介(特殊性)が必要なのに対して、単独性と普遍性は、絶えざる道徳的な決断の反復によってしかつながらない、とする。パブリックであるためには、共同体のなかではその都度個人的に振る舞うしかない、と。当然、『エスター・カーン』という映画は、媒介的なものの豊かさのなかでたゆたうような映画ではなく、絶えざる決断を強いられるという不連続で苛酷な環境に関わる映画であるだろう。エスターの、家族やユダヤ的なものに対する不自然な関係や、ファミリーネームに対する異様なこだわりは、「共同体のなかでその都度個人的にふるまうこと」と密接な関係があると言えるだろう。ユダヤ的な環境のただなかにいて、ユダヤ的なファミリーネームを保持したまま、そこから突出してゆこうとするエスターの身体のあり方は、シネフェリーの本場のただなかにいて、シネフィル的な伝統や抑圧を丸抱えにしながらも、そこから突出してゆこうとするデプレシャンのあり方と深く関わっているとも言えるだろう。