ある日

美容院で美容師(女性)が、「床屋さんって行ったことありまか?」と言うので、「子供の頃とかは行ってましたけど」と答えると、「この前、友達になった人がたまたま床屋さんだったんですよ、で、マッサージしてやるからちょっと寄っていきなよ、とか言われて初めて床屋さんのなかに入ったんだけど、面白いですね、シャンプー台が前にあるんですよね」「ああ、そうですね、こう(前屈みになる)ですよね」「でもそれじゃあ、シャンプーが顔の方へダラダラ垂れちゃいますよね」「ええと、どうだったか、もう随分前のことだから憶えてないけど」みたいな話をしているうちに、ぼくが昔、子供の頃に通っていた床屋「クロサワ理容室」の内部の光景が、そこのオヤジの四角くて鬚の濃い顔や、意味なく振り掛けられるヤナギヤのヘアトニックの匂いまで含めて、次々と思い出されたのだった。たしか順番を待っているソファーと髪を切るイスの置いてある場所との間に大きな水槽があって仕切られていて、でもそこにいるのは熱帯魚なんかではなく普通の金魚とか多分近くの川で取ってきたフナとかで、しかも水がいつも青く濁っていて、その水がツンと臭っていたような。バリカンが後頭部を滑ってゆく時の冷たいくすぐったい感触、鏡の前の台に取りつけてある鉛筆削りみたいな形の機械から白くてフワフワしたシェービングクリームがウィーンと出てくる様子、カミソリで顔を剃られるのが痛くて、瞼を押さえ付けられて目と眉の間を剃られる(子供の顔にそんなことする必要があったのか?)のが恐かったこと、何故か人体解剖図のポスターが貼ってあったこと、ビニール張りのソファーが半ズボンから出ている股にペタッと貼りついてしまう感じ、いつもラジオがデカい音でついていたこと(毒蝮三太夫とか、玉置宏とか、そんなんだ)、いつも長々と待たされて黄ばんだ半透明のレースのカーテン越しに窓の外を眺めて退屈いたこと、結局いつもトラ刈りにされて翌日学校で友達に馬鹿にされたこと、等等、数珠つなぎに出てくるのだが、それら記憶は一体本当に確かなものなのだろうか、というと全く自信がないのだった。