椹木野衣/村上隆とモダニズムへの通路

ちょっと思う所があって、1990年に青山の東高現代美術館という場所で行われ、大学時代のぼくに少なからず影響を与えた、『絵画/日本・断層からの出現』という展覧会の図録をパラパラとめくっていた。これは、明らかにモダニズムの流れのなかにいる中村一美、松浦寿夫という画家と、モダニズム的な文脈を共有しないと思われる中原浩大、松本春崇といった画家が同時に展示されていて、70年代以降の日本の美術批評において、藤枝晃雄氏なとどとともにモダニズム的な批評の中心人物でいながら、単純にモダニズム的な「趣味」とも言い切れない、「ヘンな趣味」を打ち出す批評家、峯村敏明氏の企画ならではの、何とも妙な取り合わせの、不思議な展示だった。峯村氏の意図がどこにあったのかはともかく、この展示で面白かったのは、モダニズムなどとは無関係に作品をつくっているはずの中原浩大や松本春崇の作品が、案外、モダニズム的な文脈として観ても面白く観ることのできる、両義的な、懐の深い含みをもった作品であることが、中村氏や松浦氏の作品と並べられることで判明した、というところだったように思う。

ぼくは10月16日の日記で、『ユリイカ』10月号が、村上隆奈良美智の作品に明らかに大きな影響を与えているにも関わらず、中原浩大という名前に一言も触れていないのはフェアではない、と言うことを書いたのだが、改めて観てみると、中原氏の87年から90年くらいの時期に制作されたペインティング(ドローイング)はとても面白く、ぼくの目には村上氏や奈良氏の作品よりも、明らかにずっと優れたもののように見えるのだった。(村上隆本人はともかく、村上氏の周辺にいる若手のアーティストの作品などは、ほとんど中原氏の超ヘタクソな焼き直しにしか見えない。彼らは村上氏を通して中原氏の影響を受けているのであって、中原氏のことを恐らく知らないのだろうけど、すくなくとも村上氏は中原氏のことを知っているはずで、そのことについてどう考えているのだろうか。)

で、中原氏と村上氏との違いはどこにあるのだろうかと考えてみると、やはりそれは「モダニズム的な無意識」の有無、ということになるのではないかと思う。中原氏は、意識的にはモダニズムなどというものには何の関心もないのだと思うのだが、倉敷市出身である中原氏は、小さい頃からことあるごとに大原美術館を訪れていたという。大原美術館というのは、地方の小さな、個人収蔵をもとにした美術館に過ぎないのだけど、規模は小さいながら、日本で最も「趣味の良い」収蔵作品を持った美術館だと言えるだろうと思う。(有名作家の詰らない作品ばかりを集めているという印象の、国立西洋美術館の松方コレクションとは対照的に、小さくてマイナーながら、質の高い作品が集められている。)中原氏はそこで、幼い頃から「モダニズム的な無意識」を、呼吸するようにして形成していたのではないか。対して村上氏は、アニメ・オタクから芸大日本画科という、おおよそモダニズムの入り込む余地のない行程で美術家となった訳だ。逆に言えば、半端にモダニズムなどとのかかわりを持たないことが村上氏の美術家としての最大の強みでもある。作品の「趣味の良さ」などには全く関心を持たずにズンズンと突き進んでゆくカッコ良さが村上氏にはあるのだ。そして、中原氏が現在、やや目立たない場所へと追いやられてしまっているのは、その「豊かなモダニズム的な無意識」のためとも言えるのであって、時代は増々、モダニズムから遠く離れてゆくのだろう。しかし、にも関わらずぼくには、美術がモダニズムを棄て切ってしまうことが、その「意味」を棄て切ってしまうことにつながると、どうしても感じられる。だからと言って「モダニズムへ還れ」とか、そういう単純なことでもないので、とても微妙ではあるのだが。