「今ここ」とは別種の「現在」/リテラルとフェノメナル

「作品」というものに対する時の態度として、二つの態度の対立という古くさい図式がある。作品を、完成されたものとしてみるのか、それとも、それが生成しつつある時のプロセスを重視するのか、という対立だ。あくまで作品の完成度を重視する古典的な作品に対して、結果ではなくプロセスそのものを重要視するアバンギャルドとか。例えば松浦寿輝氏のような聡明な人でさえ、このような思考の枠組みからは自由ではない。『官能の哲学』に収録されている「表象と確率」において松浦氏は、《およそ或る「作品」を前にした享受者のとりうる態度として、その「作品」のすでに完成されてある現在の姿を静的な構造体として考察する場合と、それが徐々に形をなしていった創造行為の現場をあたうるかぎり現実的に追体験しようと努める場合の二つがありえよう。》と書く。そしてこのような問題設定がなされる場合は、ほとんど自動的に前者に対して後者の立場が奨励されることになる。《確率論的な読みかたとでも言ったらよいのか、凝固してしまった「作品」の最終形態を絶対視せず、作り手がくぐり抜けた逡巡と決断の「今」を或る強度において追体験し、それを人々の視界に再浮上させるようなレクチュールがありうるのではないだろうか。》これにつづいて松浦氏は、大森荘蔵の名をあげたりして「~しつつある」時間としての、創造する「行為の最中」を何とか浮かび上がらせようとする。《意識は、一語ごと、一音ごと、一筆触ごと、成就しうるものとしえないものとの間の確率論的な揺らぎを体験しつづける。》

しかし、「~しつつある」現在とは、何も創造の主体を持ち出すまでもなく、まさに今我々が生きているこの場所や時間のことであり、我々がそこに囚われている人生そのもののことな訳だから、作品から、それが生成しつつある「行為の現在」を取り出すということは、特権的な作品を創造しえた特権的な主体が体験したであろう特権的な人生の瞬間(持続)へと、それを追体験することへと、「作品」を還元してしまうことになる。そうではなくて、「作品」と呼ばれるものの力というのは、今、目の前に現れている「作品」の効果によって、我々がそこに縛られてしまっている「今ここ」とは別種の「現在」を浮かび上がらせ、それを可能にしてくれるような力のことなのではないか。だから「完成されたもの」と「プロセス」の対立があるのではなくて、そこにある「完成されたもの」としての作品が、(まるでいくら殺してもどんどん増えつづけるゾンビのように)不断に「ズレ」とか「差延」とかを産出しつづけるプロセスが問題なのであり(つまり「完成された作品」こそが、所与のものとして既に「構成されて」しまっている「今ここ」を解体する力をもつのだ)、それらによって「触発」され、触発されることによって新たに生成した(解体され再構成された)「観者=主体」こそが問題であるはずなのだ。