「今ここ」とは別種の「現在」/リテラルとフェノメナル

(昨日からのつづき)

コーリン・ロウは有名な『透明性・虚と実』において、透明性を、実の(リテラルな)透明性と虚の(フェノメナルな)透明性に分けている。(この論文は、基本的にコルビュジェについて書かれたものなのだ、「透明性」につい説明するために、セザンヌピカソ、ブラック、レジェ等、についも言及されている。)透明性とは《二つまたはそれ以上の像が重なり合い共通部分をゆずらないと、 見る人は隠れた部分の視覚上の存在を仮定せざるをえない。 このとき像に透明性が付与され、 像は互いに視覚上の矛盾や断絶なく相互貫入する》(ジョージ・ケベシュ)ということであり、もっと言えば空間的に共存しえないような次元の異なる二つ以上のものが、同時に知覚できるという状態のことだ。実の透明性とは、そのような状態をガラスなどの実際に透明な物質を用いてダブル・イメージのように実現させることであり、虚の透明性は、物理的な透明性とは別の、まさに「次元の異なる二つ以上のものか同時に知覚」されるような独自の構造が実現された時にだけ、あらわれるもののことだ。それを強引に解釈し直すとすれば、実の透明性とは、形態(図)の重ね合わせによって得られる透明性であって、それは図の複数性(いわば「多義性」)をもたらすのだが、虚の透明性は、いわば図を浮かび上がらせることを可能にする地、ある意味を発生させるための場、コンテクストなど、表現の基底となるものの複数性によって得られる(だからここであらわれるのは「決定不可能性」だし、複数に分裂した基底の絶えざる入れ替わり、あるいは闘争でもある)、と言えるだろう。さらに強引な解釈をつづければ、虚の透明性とは、不透明による透明性のようなもので、それは決して全体を一望のもとに眺めることが出来ない、いわば複雑な迷路に迷い込んだような状態で、一つ角を曲がる度に風景が一変してしまい、その度に今まで見てきたもの全てを解釈し直さなければならなくなる、という状態に似ている。しかし、これでは松浦氏の書いた《意識は、一語ごと、一音ごと、一筆触ごと、成就しうるものとしえないものとの間の確率論的な揺らぎを体験しつづける》という状態と同じということになってしまう。(ただ、松浦氏はこのような状態を、作家が作品を生成している「現場」に遡行することで見い出すのだが、ここではそれは完成された作品の「効果」として現れている、という違いがある。)ただし、ここで重要なのは、透明性という現象は空間・時間という形式の外にあるものだ、と言うことなのだ。とは言っても、結局我々は、空間・時間という形式にそった知覚によってそれを「感じる」しかないのだが。ある作品を前にして、我々はそれを空間的に知覚し、時間をかけて観て、読み込んでゆく訳なのだが、その作品が決定不可能なものであるならば、それを永遠に読みつづけなければならくなってしまう。しかし一方で時間をかけて読み込みながらも、その読む=観るという行為の持続によって得られる意味とは次元の異なる別の意味、「構造(複数の構造の絶えざる交錯という構造)」としての「透明性」を、空間・時間とは別の形式、ズレや分裂、差異の体験として、「感じる」としか言い様のない仕方で知ることになる。おそらく「強度」というものもまた、空間・時間という形式の外で経験される事柄であり、だからそれを直接的に「体感」することは出来なくて、「知覚」とは別の仕方(例えば「戦争神経症」のような形で、あるいは「精神分析」によって)で、事後的に知らされるしかないものなのだと思う。だから「芸術による経験」とは、「体感」のようなものとは全く違うなにものかなのだ。