「MOMA」展のマティス

上野の森美術館で「MOMA」展。

●やはりマティスは圧巻だった。図版などで知っている作品ばかりだとはいえ、改めて観てみると、少なからぬショックを受けた。有名な「ダンス」の第1作が傑作であることは言うまでもないのだが、今回改めて感じたのは、かなりの点数が展示されていたブロンズによる彫刻の面白さだった。彫刻家の仕事のような技術的洗練はないとしても、決して画家の片手間の仕事と言うべきものではない。全体のマッスを掴み、ざっくりとした空間を形成するやり方は、いかにもマティスらしい独自の空間感と形態の感覚に貫かれていて素晴らしいし、粘土に手で触れながら触覚的に作り込まれた細部の形態も、とても魅力的だ。彫刻家的な洗練かないとすれば、おそらくその触覚的な細部と全体の空間感を仲介するような、中間的な形態を拾えていないというところにあるのだろうと思えた。それがエレガントさの欠如のような印象を与えるかもしれない。しかしマティスの彫刻においてそのことは何ら欠点にはなっていなくて、むしろ細部と全体がギクシャクしながらも中間項なしに結びついてしまっているのが、とてもスリリングなのだ。スリリングと言えば、『モロッコ人たち』という絵画作品があって、これはバラバラな3つないし4つの部分に、画面が分裂してしまいそうなところを、画面の多くを占める「輝くような明るい黒」によって辛うじて強引に結び付けられている(図版などで観るとこの「輝くような明るい黒」がただの「黒」になってしまうので、何がやりたかったのかイマイチ分らないような絵に見えてしまうのだった)、決して傑作とは言えないような作品なのだが、しかし、今にもバラけてしまいそうな危うさがかえってスリングで、いつまで観ていても次から次へと新たな発見が産み出されてくるようで、いくら観ても飽きない不思議な絵なのだ。この「輝くような明るい黒」い色面を絵画において初めて使用したのはマネだと思うのだが、マネの作品において、笛を吹く少年のズボンのようにマットであると同時にボリュームをも感じさせるものとして使用されていた「黒」が、このマティスの作品においては、背景であると同時に最も存在感を主張して前面に出てこようともする色面でもある、というところまで過激なものになって使用されている。(勿論、この黒い色面は浮世絵からの影響によるものなのだけど、浮世絵の黒には、輝くような明るい感じがないし、何より、一つの色面に同時に複数の意味をもたせる、というほど高度なことは出来ていない。)このような黒の使用は、これより5年前に描かれた『赤いアトリエ』における赤の使用の延長線上にあると思うのだけど、『赤いアトリエ』の画面のほとんどが赤で浸されて調和しているのに対して、『モロッコ人たち』の黒はそこまで全体を支配している訳ではなく、中途半端な役割しか持たされていない。しかし、この「一つの色彩が中途半端に画面を支配する」というのは重要で、半端にしか支配しないことで、細部の動きがより自由に活発になるのと共に、画面上に「断層」のようなものを、よりはっきりと出現させることが可能になるのだ。このことは、これ以降のマティスの多くの作品にとって、とても重要な要素となってゆくのだ。

●それにしても、色を「味わう」というのは一体どういうことなのだろうか。普通に考えるならば、例えば「青」を青いと一度知覚してしまえば、人はもうそれ以上その青を見る必要はないはずなのだ。知覚というものが、外界の変化を、つまり差異を触知することだすれば、それは当然のことだろう。にも関わらず長い時間をかけてその青を見つづけるとしたら、その青が、視線を向ける度に次々に新しい「青」という意味を発し続けているということになる。そうでなければ既に固定してしまっていて、何の変化も生じない「絵画」というものを、そんなに長い時間眺めつづけられるはずはないのだ。その青は、ある時は絵具の物質感、抵抗感とともにある青であり、ある時は大きく拡がる空虚としての青であり、ある時は薄く塗られた本当に美しい肌色を活気づける背景としての青であり、ある時は画面全体を細かく震動させるような筆致とともにある青であり、ある時は....。マティスの『ダンス』、その青。少なくともぼくにとっては、色を感知するということは、視覚的な体験ではなくて触覚的な体験なのだ。それはだから、手でふれることであり、頬ずりすることであり、顔を埋めることであり、全身それにまみれることであり、つまりは思いっきりエロエロな体験であるのだった。

マティスの他にも、ボナールの作品は、ボナールの最良のものの一つだと思うし、クレーの『夕暮れの火事』という作品は、クレーの最高傑作なのではないだろうか、と思った。ブラックの静物も悪くなかった。それらに比べ、戦後のアメリカ美術、つまり抽象表現主義の作品はいま一つで、ポロックの最良の作品は来ていなかったし、デ・クーニングの作品は有名なものだけど、今観るとそれほどの作品ではないように見える。あと、マティスの作品の圧倒的な充実ぶりに比べると、どうしてもピカソは数段弱いような印象を持ってしまうのだった。