中森明菜と「芸術的な経験」/モダニズムとかフォーマリズムとか

テレビをつけたら中森明菜が出ていて、子供の頃ドナ・サマーが大好きだったと言っていたのでへえーっとか思ったのだった。中森明菜はぼくと2つ3つしか違わないいと思うのだけど、何か1世代違うという感じなのだろうか、と思ったりするのだが、でも、実は小柳ゆきとかそういう最近の風潮に対する目配せと言うか媚びをみせているだけなのかもしれない。だとしても、いかんせん中森明菜は存在が重すぎるし、何より背負っている物語の「質」がイマドキのものとは大きく異なってしまってるので、彼女がワカモノから受け入れられることは多分もうないのだろう。なんてことを言っていはいても、中森明菜が出ているとつい見てしまうような、自分のなかに脈々と流れてしまっている80年代アイドル歌謡的な感性(いや、実は地方都市のヤンキー的感性なのかも)とは、もういい加減サヨナラしたい、とウンザリしてはいるのだが、松田聖子からは昔も今も何も惹かれるものがないのだけど、中森明菜にはどうしてもどこか引っ掛かってしまう部分がある訳で、このての下品さに引っ掛かるくらいに「育ちの悪い」ぼくのような人間が、何を勘違いしたのか「芸術的な経験」なんていう言葉を口走ってしまったりするようになるのは、ひとえに日本の80年代のバブル景気の経済的効果による「幻影」のようなものに過ぎないのだということくらいは、しっかりと自覚していなければいけないだろうと思う。(だからこそ、「根」から切れた場所で、何かをつくり、判断するための手法としての、モダニズムとかフォーマリズムとかが必要なのだ。)