02/01/14

●昨日のことに関連して、ちょっと自分の作品について書いてみる。恐らく「画家」としてのぼくは、物質との「知覚」を超えた交感=交歓のようなものを、とりあえずは信じている。しかしそのことに過剰な意味を付与したくはない。確かにこのことは、「つくる人」としてのぼくにとっては、必要欠くベからざる「信仰」ではあるのだが、自分の作品を「観る人」としてのぼくにとっては、相当疑わしいと言うか、そう簡単には信じることの出来ない事柄である。多分これはぼくの思い込みであり「幻想」であり、もしかすると「病理」であるかもしれないようなものだが、ぼくはこのような「幻想」を駆動させることによってしか作品を生産することが出来ない。しかしここで、ぼくの個人的なものでしかないだろう「幻想」は、あくまで作品を生産するエネルギーを供給するもの、作品をつくるという行為を駆動させるものであって、作品の「意味」であってはならないと思うのだ。ぼくは方法によって制作する作家ではないし、何か主張したいことを表現する作家でも、インスピレーションに駆られて仕事をする作家でもない。絵具という物質があり、それを乗せる麻という物質があり、それらの物質に関わり、それらに変形を加え、またそれらから影響を受けもする自分の身体があり、それら3者が置かれている具体的な空間(小さな山の中腹にあり、隣の声のデカいオバサンの声がいつも聞こえていて、長いことそこにいた犬が死んでしまった、そういうアトリエ)において絡み合うという状況そのものによって、状況そのものを素材としてつくられるしかない。例えばぼくは、素手で絵具を持ってそれを麻に擦りつけるようにして描いたりするのだけど、絵具を麻に擦り込むということは、自分の皮膚に擦り込むということでもある。絵具のなかにはカドミウムなどの猛毒が入っているものもあり、それも当然ぼくの身体に入り込んでくるだろう。カドミウムという物質が自分の身体に染み込み蓄積してゆくのをぼくは「知覚」することは出来ないのだけど、それはぼくの身体に何らかの影響を与えはするだろう。そして、絵具にも、ぼくの掌の皮脂や手垢、汗や血などが混じり込み、絵具という物質にも何らかの変化をもたらすだろう。このように、絵を描くということは比喩的な意味だけでなく実際に物質的なレベルにおいても「絵画」そのものと混じり合うということでもある。このような微細な変化が、実際に出来上がった作品にどの程度反映しているのかは知らない。しかし、このようなほとんど妄想に近いと言ってもいいかもしれないような幻想(「絵画」そのものとの、物質的なレベルでの交感=交歓)に駆動されることによって、なんとか作品はつくられるのだ。
だからと言ってぼくは、自分が作品をつくっている場の雰囲気や自分の身体の気配を、作品を観る人に感じ取ってほしいと思って作品をつくっている訳ではない。(しかし実はそれは、否応なく感じられてしまうものではあるのだが。)いくら何でもそれほど幼稚なナルシストではないつもりだ。ぼくが自分の作品にとりあえず目指しているものは、あくまで近代絵画的な空間性であり、形式性であるのだ。だが、当然のことだけど、物質というレベルでの「絵画」そのものとの交感=交歓は、そのままなだらかに近代絵画的な形式性へと連続的に進展してゆくことはなくて、その間には断絶があり、何かしらの形での飛躍が強いられるのだ。
(つづく、)