02/01/25

●すごく久しぶりに銀座へ出て画廊を巡る。(映画を観るためになら来ているんだけど。)特にこれといったものはない。ギャラリー現の梶山さんと話していて、佐賀町の食料ビルに入っているギャラリーで小林正人の展覧会をやっていることを知る。こういう重要な情報を逃してしまいそうになるくらい、「日本美術の状況」から遠いところにいる。それにしても、エキジビットスペースがクローズして以来久しく行っていない食料ビルまで、どうやって行けばよいのか分らなくなっている。ここまで来たので、上野まで行ってMoMA展をもう一度観ることにした。
●時間をかけてじっくりと物を見ると言うことは、同一の対象に対して次々と新たな視覚的な情報を入力してゆくと言うことで、つまりそれを丹念に細かく見れば見るほど事物の印象はブレてゆき、動いてゆき、しまいには複数に分裂してしまう。例えばピカソは、それを避けるために、なるべく手早く絵を完成させる。自分の「手」と「カン」に対する絶対的な信頼が、それを可能にするだろう。しかしその「手早さ」のせいで、ピカソは決定的に「色彩」を使うことが出来ない画家なのだった。(ピカソの絵は、どのようにそのモードを変化させようと、基本的に陰影の対比によって構築されていて、ごく一部の例外をのぞいて、モノクロームのデッサンに彩りを加える、という風な色彩の使用しか出来ない。そのような意味では20世紀の絵画とは思えないような「古さ」がある。ボナールのクラクラするほどの過激さに比べ、ピカソのなんと保守的なことか。)マティスはまさに、その分裂こそを問題にしている。MoMA展に展示されている同一モデルの複数のブロンズ像は、純粋に「造形的な」展開を示してなどすこしもいない。これこそが、同一の対象に対して知覚が複数に分裂してゆく様を露にしている。そして一枚の絵画において、そのような分裂による知覚の解体の危機に最も直面しているのが、あの『モロッコ人たち』ということになるだろう。この決して成功しいるとは言い難い作品が、いくら観ていても見飽きることのない面白さを湧出するのは多分そこからきている。引き締っていると同時になんとも豊かな表情をたたえている黒は、それ自体が主張することでバラバラに分裂してしまっている各要素をつなぎとめて、各要素に共通した場(一枚の絵画)を何とかつくりあげているのだが、同時に、各要素間を断ち切る断層にもなっている。これはもう「一枚の絵」とは呼べないような、一枚の絵なのだった。