02/01/26

●批評空間HPのWeb CRITIQUE(http://www.criticalspace.org/special/index.html)に、『セザンヌ村上隆とを同時にみること』がアップされました。この日記の1/23の部分は、『セザンヌ村上隆とを同時にみること』についての補遺という感じで書かれています。
●ぼくが金井美恵子の『噂の娘』や、あるいは『柔らかい土をふんで、』などを読んでいてどうしても思い出すのは、保坂和志の『明け方の猫』という小説のことだ。例えば、『噂の娘』の話者の女の子や『柔らかい土をふんで、』の話者の男(の子)が、編み物をしたりしながら他愛の無い噂話を果てしもなく交わしている女たちのなかにいて、だらだらと寝そべっていたりして、その空間をあたたかい光が満たし、部屋のなかを裏口から入ってくる風が吹き抜けてゆくような描写から受ける感覚と、『明け方の猫』で、夢のなかで猫になってしまっている話者が、子供の頃過ごしたおばあちゃんの家の広い畳の部屋でゴロ寝しているような場面の描写から受ける感覚には、とても近いものがあるし、『明け方の猫』で、何度もしつこく同じことばと仕種を繰り返しているおばあさんや、アパートに住んでいるカップルなどの登場人物に注がれる視線の距離感と、『噂の娘』で柏屋の兄弟や美容院の人々に注がれている視線の距離感には、とても近い「感覚」を感じるのだ。しかしにも関わらず、金井氏と保坂氏とは全く異なる資質の作家のようにみえてしまう。保坂氏なら決して小説に過去の自作の1部分をそのまま紛れこませたり、『秘密の花園』を勝手に書き換えて引用したりなどしないだろうし、何より保坂氏の小説にはざわざわとざわめき、沸き上がってはこぼれるような「おしゃべり」はない。(保坂的人物は、だらだらと喋っているようでいて実は意味のあることしか言わない。)おそらく金井氏にとって重要なのは、エクリチュールの力によって、ある「感覚」を生成させること、誰のものでもない非人称的な粒だち波だってうつろい行く「感覚」の強度へと世界を還元し一元化してしまうことであり、対して、保坂氏にとって興味があるのは、世界のシステムを記述をすることであって、登場人物によって産み出される「感覚」も、その世界のメカニズムを構成する要素の1部分として、その内側から生きられるのと同時に外側から見られ計測され、考察と記述の対象となるものなのだ。(「感覚」の部分にはとても近いもがあると思うのだが、「感覚」に対する態度がまるで違う。)金井氏にとって「感覚」は、洪水のように押し寄せ、それに押し流され、そのなかで溺れるようにしてもがくしかないようなものであって、つまり「感覚」こそが世界そのもので、感覚とその外側にある世界との「関係」というものは問題にならない。(それは「外」が無い、と言うことではなく、「外」があったとしても「感覚」としてしかそれを知ることが出来ないはずだ、と言うことだろう。)保坂氏の小説では、「感覚」とは別に、常にその感覚の外にあって、感覚を規定している「掟」(世界の法則)のようなものが問題にされている。(「感覚」と「掟」との関係が問題にされている。)保坂氏の小説は、まず外側からの掟によってきっちりと限定され規定されていて、その内部でのみ「感覚」が稼動する、と言う感じなのだ。だからそれは、どこか実験室に設えられた装置のなかで作動しているような印象、つまり、ある一定以上の強い感情や波風があらかじめ丁寧に取り除かれた、きっちりと限定され抑制された範囲内だけですべての事柄が起こっているような感じは拭えない。むしろ徹底して「感覚」の内部だけに還元され平面化されている金井氏の小説の方が、感覚の外からやってきて感覚を貫いてしまうような亀裂の痕跡が、よりナマナマシク生起していると思う。しかしそれは常にうつろいへ行く不定型な流れであり、粒立つ強度であって、世界を立体的に構成することは出来ない。
金井美恵子保坂和志という小説家は、その身体を貫いている「感覚」的には近いものがあるように思う。(2人とも、ずうずうしいほど平然と、他者をその世界から排除してしまうことのできる、恐ろしく独善的な作家だ。)しかしその「感覚」への態度によって両立不可能であるかのようにも見える程の距離がある。(シモンとベケットくらいの違いがある、とも言える。)多分この2人の作家の「読者」はあまり重ならないのではないかと思われる。しかしぼくはこの両者に共に強く魅了されてしまっているし、どちらか一方だけでは生きてゆくことが出来ないと感じてしまっている。