02/02/01

ベルトルッチの『魅せられて』をビデオで観る。前にも書いたと思うけど、ぼくはこの映画がとても好きなのだった。これはベルトリッチの衰弱を象徴するような映画だとか、年甲斐もなく不自然な若づくりをしているとか、弛緩したエロジジイのつくったような映画だとか、そういう批判は恐らく正しい。この映画に対してはっきりと贔屓の態度をとるぼく自身、終盤はかなり退屈だと思う。だいたい、女の子が自分の本当の父親と、理想の初体験の相手を探しにアメリカからイタリアの田舎街までやってくる自己探究の話という、この「お話」自体がバカみたいだし、バカみたいな話としても、上手く出来ているとはいえない。
しかしこれは「女の子」(リブ・タイラー)を主体とした「自己探究」の話ではない。このことは冒頭のアメリカからイタリアへと移動するリブ・タイラーを隠し撮り的に撮影したビデオ画面からして明確に示されている。この映画のリブ・タイラーは、常に鬱陶しい視線に包囲され梱包されてしまっている。彼女の行き先は、半分死にかけた人物たちが、退屈な日々の反復のなかで暮らしているような場所であり、彼女はそこへ「見られる対象」として、見られる為に出掛けて行くのだ。人工的な偽りの楽園のようなその場所で、彫刻家は彼女をモデルにするし、死にかけの劇作家は彼女を見つめることによって最後の生気を取り戻すだろう。彼女の存在は、彫刻家夫婦や、宝石デザイナーと弁護士といった倦怠したカップルの性生活に刺激を導入し、新聞に人生相談を執筆している中年女性に、新たなロマンスの情熱を吹き込むだろう。(この辺りの、「腐りかけた人々」の描写などは、どこかゴダールの、例えば『ゴダールの決別』などに近いような感覚を感じる。)この生け贄とも言える視線の対象は、そこにいる人全てに共有されたものであり、だから彼女がバージンであるという情報も、瞬く間に拡がるのだ。腐りかけている偽りの楽園の住人たちにとって、彼女はあくまで「生け贄」であるのだから、人々は彼女を見つめ、行動を監視し、セクハラまがいのちょっかいを出したりはするものの、誰も本気で「モノにしよう」とはしない。その権利があるのは、この場所では彼女と同様に半ば「見られる対象」として存在している少年たちであるのだった。(少年たちはただ「若い」ということからだけ「視線の対象=生け贄」であるのではなく、長い旅行から帰ったばかりの、ロクにこの場所に居着こうとはしない半ば他所モノである、という意味でも彼女と同様の人物なのだ。)人々は、刺激を感じ、しかし嫉妬や自らの不能性への絶望も同時に感じながら、その絶望すらも「緩い快楽」への糧として供給しつつ、彼女や少年たちを見つめている。彼女や少年たちの存在は、腐りかけの楽園にいくばくかの感情の震えを発生させ、人々はそれを快楽を駆動させるエネルギー源として使用するのだが、そのささやかな波瀾はその場所に決定的な亀裂をはしらせるまでには至らず、もうここでは生きてゆけない、生まれ故郷に帰りたい、と訴える彫刻家の妻の声も、日々の反復のなかに埋め込まれ、消し去られてしまうのだった。だからこの映画は、徹底的に「緩い快楽」(しかも腐りかけ、死にかけている)を巡るユル~イ映画なのだ。そしてこの「ユルさ」のなかにこそ、ベルトルッチの映画に対する、あるいは生=性に対する、絶望と肯定とがともに深く刻まれているように感じられる。(単純に、重さと濃さがなくなってしまったベルトリッチの演出というものを、ぼくはすごく好きなのだ。)