02/02/02

●銀座、ギャラリー現で井上実・展。井上くんの作品はここ2、3年くらい観ているけど、今回展示されている作品はひとつ突き抜けたという感じで、良かった。軽味が出て、空間性が増した。井上くんは基本的に植物をモチーフにしていて、小さなカンバスに余白を多く残して、葉っぱの形に由来する大小様々な色面が色彩の微妙な変化とともに画面にリズムをもって散らばっている。しかし、このような説明だと、何かとてもつまらない趣味の良いだけの装飾的な絵画(例えば押江千衣子みたいな。ぼくはこの人気作家の作品のどこが面白いのかさっぱり分らない。)を想像してしまうかもしれないし、実際そのような危険とギリギリのところで仕事がなされている。井上くんの作品も、ものによっては視覚的な整合性に引っ張られるあまりに、過度に装飾的になったりすることもある。しかし例えば、比べて申し訳ないけど、押江千衣子氏の描く彼岸花が、本当に彼岸花を見て描かれているとは思えないウソくささ(これをのびやかさと言う人もいるが)なのに対して、井上くんの描く植物は、実際に植物を見て描くことが「必要」であることが、その作品からよく分るようなものなのだ。何も写実的に描かれているという訳ではない。その作品は、植物だと言われなければそれと分らないかもしれないくらいにまで、抽象的な切片の散らばりである。しかしそこに獲得されている空間の複雑さは、実際に植物をモチーフとしなければ得られないような複雑さなのだ。押江氏の彼岸花は、実在する彼岸花の形態や空間、それが色彩として我々に与える感覚などとは関係のない、彼岸花「的」な形態、あるいは彼岸花という意味でしかないだろう。だからこそ押江氏は、彼岸花にいかにも今日的な「ほんわかした」雰囲気を平気で付与することができるのだ。井上くんの作品は、それが成功していればしているほど(非物質的な)軽味が出るので、弛緩した目にはイマドキ風の軽くてセンスだけで描かれた絵のように見えるかもしれないが、しかし実際はそういう風俗的な記号とは無関係に、日々、実際に植物を目の前にして手を動かして、その空間の複雑さを拾いあげるという探究の持続の結果としてあるようなものなのだ。つまりこれらの作品にあるのは、ちょっとしたセンスの良さによって今日的な気分を表象することで、人々を魅惑しようという魂胆ではなく、日々の実験と、ささやかなしかし驚きに満ちた発見とを繰り返す科学者のような、世界への探究という姿勢なのだ。カンバスの多くの面積を白いままで残し、黄緑から黄土色までのごく狭い範囲の色彩が薄塗りされた色面が、切片として散っているだけの画面は、(安易に東洋的な、などと言われるような)余白や間合いや引き算の美学などとは無関係に、過剰なまでにくり返しくり返し見直されるごまかしのない視線の強さによって出来ているからこそ、観者がいくら長時間見ていても見飽きることの無い、複雑でニュアンスに富んだ空間性を産み出しているのだと思う。
●井上くんとMoMA展のマティスについて話す。それにしても不思議なのは、あの『モロッコ人たち』という絵で、あれは本当に変な絵で、一体何をどう考えて、どういう手順でどんな風に描いていったらあんな絵が出来上がるのだろうか、本当のところをマティスに聞いてみたい、とか、そういう話。