02/02/03

金井美恵子の『噂の娘』に「B足らん」という言葉が出てきて、これはつまり「ビタミンB不足」という意味で、恐らくこの小説の舞台である1950年代中ごろに使われていた独特の言い回しで、金井氏の頭に残っていたものなのだろう。こういう「B足らん」なんていうちょっとした言い回しから、その時代の雰囲気というか匂いのようなものをフッと浮かび上がらせてしまうところに、金井氏の小説家としての並々ならぬ力量が感じられる訳だ。しかし「その時代の雰囲気」とか言ってみても、ぼくは50年代の雰囲気など実際には知らなくて(生まれていない)、ぼくにとってのその時代のイメージというのは、もっぱら小津や成瀬の映画からきている。「B足らん」という言葉を読んですぐに思い出したのが、小津の『晩春』だったか『麦秋』だったかに出てくる「大変古風なアプレゲールですね」とかいうセリフで、この映画を初めて観たときには、この唐突にあらわれる「アプレゲール」という言葉の意味が分らず、前後の文脈からして多分「現代っ子」とか「イマドキの人」とかいう感じの意味だろうと思っていた。後で調べたらフランス語で「戦後派」という意味らしくて、小津が全く唐突とも言えるタイミングでセリフにフランス語をまぜるということは、つまりはそれが当時のスノッブな人たちの間ではよく口にされていた流行語のようなものだったからだろうと思う。(日本語の辞書にカタカナで載っているくらいだし。)小津の映画で聞かれる日本語のセリフの音の流れのなかで、時おり唐突にあらわれるカタカナ語というか外国語というのは、ある独特の感触をもっていて、そのゴロッとした違和感のあり方が、何となく1950年代の日本という匂いを感じさせるのだ。今、普通に喋ったり聞いたりするような日本語の会話のなかでは、どんなに聞き慣れない外国語がまざっても、そういう独特の違和感は感じられない、というような独特の違和感なのだ。(それに、アプレゲール=戦後派という言葉がそのまま「イマドキの人」というニュアンスを帯びるあたりが、その時代の「戦争」との近さを強く感じさせる。)「B足らん」という言葉は勿論外国語ではないけど、その言葉の響きが産み出す違和感が、小津の映画を観ていて「大変古風なアプレゲールですね」というセリフにぶつかった時に感じる違和感ととても近いものを感じる訳で、ああ、1950年代というのはこういう感じで言葉が響いていたのだなあ、と知りもしないのに納得してしまうのだった。