02/02/07

神代辰巳の『恋人たちは濡れた』『四畳半麸の裏張り』『青春の蹉跌』をビデオで観る。たしか『黒薔薇昇天』もどこかにあったと思ったのだが見つからない。神代の映画の面白いところは、内容が無いというところにある。と言うか、表現が内容と無関係なところで成立している、と言うべきか。神代の映画は無意味な運動と抽象的な関係によって出来ている。だから神代の映画はいつも希薄な印象なのだろう。男と女が延々と性交を続けていても、そこから濃厚なエロスのようなものは立ち上がってはこないし、多分に風俗的な影響を強く受けている題材を取り上げているにも関わらず、時代の空気を希薄にしかまとっていない。最近、DVDで大島渚の『新宿泥棒日記』を初めて観たのだけど、大島らしい冴えた空間把握を感じさせるところが多少はあるものの、今観ると全くくだらない映画で、あまりの下らなさに驚いてしまったのだが、内容的には68年の「後」の青春映画であり、『新宿泥棒日記』以上に下らない話だと言える『青春の蹉跌』が今観ても充分に面白いのは、神代の映画が物語や題材とはほとんど無関係のところで出来上がっているからだろう。『恋人たちは濡れた』の主人公は、一度捨てた故郷に再び戻ってきたのだが、自分は「5年前ここを出て行った男」とは別の人物だと言い張り、親友や母親をも知らないと言い張る。そして男と「元」親友の間を、1人の女が揺れ動く、という関係が描かれる。この物語を普通に読めば、土地や血によって結び付けられた共同体から浮遊した男がいて、もう一方にその内部で安定している親友がいる。そして女は親友の恋人であるのだから、一応は土地や血の共同体の内部の人間なのだが、女は男の方に興味があり、土地や血から抜け出そうというベクトルを感じさせる、という話のはずなのだが、実際に映画を観ると全くそんな風には見えない。だいいち神代の映画には、土地や血に縛られた人間など1人も出てこない。すべての人物が抽象的で、根をもたずに不安定に浮遊しているように感じられる。それに、神代の描く地方の港町は、いくらそれらしい演歌や春歌が鳴り響いていたとしても土着性というものがなく、まるでアントニオーニの砂漠のように抽象的な場所でしかない。だから、この映画は題材を的確に作品化するという意味では失敗していると言うべきなのだ。しかし神代の映画は題材とはほとんど関係がない。だいいち神代の映画(特に70年代のもの)は、一本一本の区別というものにあまり意味がないように思える。神代は同じ映画のヴァリエーションばかりを撮り続けていて、そこには延々と続く無為な行為のひたすらな持続と、そのなかで人物の関係がどのようにあり得るのか、どのように動いてゆくのか、という実験が繰り返されているだけなのだ。
神代の登場人物は、ほとんど存在の重さというものをもっていないように見える。彼らは人物としての固有性さえも希薄で、極端に言えば、ただ人の形をした影のような存在だとさえ言えるかもしれない。固有名を持った2人の人物が性交しているのではなく、ただ、Aという男とBという女が性交しているのをCという男が眺めている、というような感じで、そこに示されるのは、2つの身体が絡まり合って動いているその「動き」そのもの、あるいは「動き」の展開であり、それに加えて、ラットAとラットBとの関係が、ラットCにどのような影響を与えるのか、というような観察者の視点であると言えるだろう。神代の映画では、無為な行為は「無為」という意味すら持っていないし、どこにも着地しないまま投げ出されている。例えば、『恋人たちは濡れた』で、中年女がハシゴを登って首を括ろうとして失敗するシーンは、夫からも若い男からも捨てられた女の絶望や悲しみや滑稽さを表現などしてはいなくて、ただ、結わいた紐がズレで、宙吊りの身体がずるずると滑り下りてゆく動きそのものが示されているだけなのだし、『青春の蹉跌』で、男たちがラグビーを真似て、互いの肩と肩、頭と頭を激しくぶつけ合う仕種を繰り返しても、それは男同士の濃厚な関係を示しているのではなく、たんにぶつかり合うという仕種があり、そこに乾いた音がたつというだけなのだ。(神代の作品では、どの映画のどの人物も同じような仕種を繰り返すのだから、そこでは人物の固有性よりも、行為や運動の反復性の方がずっと重要なのだ。)
だが、神代の映画は、ただ無為の行為の反復によってだけ出来ている訳ではない。登場人物たちは、いつも複雑な関係のなかに置かれている。主人公と言える人物はいても、その人物も複雑な関係の一端をになっているにすぎない。誰かと誰かが関係する時、必ずそこには、その場所にはいない不在の別の誰かの力が作用している。しかしその「関係」というのも、動かし難い固有性をもった関係、関係の絶対性と言うべきものをもった関係ではなく、どこか交換可能なバリエーションのひとつであるという希薄さがある。それは結局役者が演じている役でしかないし、つまり遊技の規則であって、一本の映画が終わればリセットしてやり直すことができる。つまり一方に、役柄の固有性を超えてしまう、役者の交換可能性があり、もう一方には役者の身体の固有性をも超えてしまうような、行為や仕種の反復性があって、それらによってあらゆる固有性は解体され、幾つもある可能なもののうちの一つとしての、抽象的な形式へと変換されるだろう。その時、ある人物が固有の身体を持たざるを得ないということによって発生する、濃厚な意味やエロスや感情といったものは取り逃がされるしかないだろう。(明らかに神代から多大な影響を受けていると思われる相米慎二が、「神代は上手いけどそんなに面白くない」と言う時、相米にとって重要なのは固有性を持った濃厚な「感情」なのだいうことが分る。物語内容からすればどの神代作品よりも無意味だと言える『ションベン・ライダー』が、しかし激しい情動の震えという「意味」を濃すぎるほど濃くもっていることからもそれは明らかだ。)だが、固有な意味の喪失によってそこには、抽象的な遊技空間と言うか、世界をある固有の身体から離れたところから構成し、実験し、思考することを可能とするような空間が開けるのだと思う。