02/02/08

●「新潮」3月号の、多和田葉子『球形時間』を読む。多和田葉子の小説がこんなにスラスラと読めてしまうっていうのはどういうことだ、という戸惑いとともに読み進んだ。そしてこんなに分り易くていいのだろうか、という思いも。「高校生のためのやさしい現代文学」という印象。それはたんに高校生が主な登場人物で、多和田氏の小説としては読み易く、分り易く書かれているからというだけではなくて、多分に啓蒙的な意図が感じられたり、若い他者に対する「思い」のようなものが感じられたりするからだ。それに、現在の「世界」に対する怒りやいら立ちのようなものが、多和田氏独自の異化作用を経ずに、ちょっと安易ではないかと思うほどに直接的に、ナマのまま露呈してしまっている部分も少なくないように思う。もともと多和田氏の小説は図式的だし、ある種の「異義申し立て」の手段として身体的な「違和感」を使用するという分り易い方法で作られているとも言えるけど、しかしその図式性は常に、「かかとをなくし」てしまったようなつま先立ちのエクリチュールの強度や、言葉を身体化してしまうような多和田氏独自の奇想による異化の質などとの厳しい緊張関係の上で成り立っているのだと思う。しかしこの小説ではエクリチュールは弛緩し、言語の異化は時にさむーいオヤジギャグに堕してしまっている。(だいたい『球形時間』というタイトルからしてオヤジギャグのレベルではないだろうか。)特に冒頭から数ページは、寒いオヤジギャグと下らない言葉遊びが連発されていて、「これってわざとやっているんだろうか」と頭を抱えるところが随分あった。だからここでは、図式や、政治的主張や、啓蒙的な意図や、つまりわざと嫌な言葉で言えば「メッセージ性」ばかりが、生のままで浮き上がってしまっている。
にも関わらずこの小説が興味深いものであるのは、ここには「若い他者への思い」のようなものが強く感じられるからだ。これは多和田氏の小説としては特異なことではないか。例えば『聖女伝説』の主人公の女の子のもつ「身体感覚」は、多分に作家である多和田氏自身から産み出されたもの、多和田氏の感覚をもとに組み立てられたものという感じがするのだが、『球形時間』の登場人物である女子校生サヤは、あくまで「イマドキ」の女子校生として設定されており、多和田氏の身体感覚の延長としてだけでは構成できないような人物となっている。この人物は、多和田氏の感覚だけでは決して構成できないような(つまり自らの高校生時代の変奏ではない)、齢の離れた「他者」として造形されている訳だ。(それを要請しているのは、現在のこの「世界」へのいら立ちであり、そのような世界のなかで今後生きてゆかざるを得ない若い他者への「思い」なのだ感じられる。)この小説で、サヤが感じる感覚として語られる言葉が、多和田的なエクリチュールの質から言えば弛緩してしまっていたり、時に寒いほどに「外して」しまっていたりするのはそのためだと思う。しかし、この小説の登場人物たちは皆、多和田氏の描く人物とは思えないほど「実在感」がある。それは実際にこのような人物がいそうだ、ということではない。(むしろ、例えばサヤという人物は今どきの女子校生の表象としてみると無惨なほど失敗している。多和田氏は風俗の描けない作家なのだ思う。)そうではなくて、どの人物にも、どうしようもなく「個人=主体」であるしかないような「堅い痼り」のようなものが感じられ、そこには測り難い深みと厚みがあり、そしてどの人物も強く「他者」を求めているようにみえる、ということなのだ。ここでは、ある中心的な人物が感じる「違和感」によって世界や他者が構成されるのでも、人物と人物との「ズレ」によって世界が構成されるのでもない。ある固有の重さを持った人物の「重さ」があり、その人物とは異なる存在である別の人物が、その「重さ」にどのように触れてしまったり、触れられなかったりするのか、ということが「関係」として、通俗的なドラマとなってしまうことさえ厭わずに描かれているように思える。教師であるソノダは、恋人との考えの食い違いに本気で落込んでしまうし、ホモセクシャルである高校生カツオは、「変態」という言葉に本気で傷ついてしまう。(今までの多和田作品ならば、「変態」という言葉が出てくるや否や、その言葉や概念を解体してしまうような地口やエクリチュールのうねりが次々と押し寄せて圧倒してしまうと思うのだ。)
しかしだとしたら、この小説の終り方はあまりにも不十分であるように思う。一貫して「嫌な人物」として描かれているナミコという人物の悪意を、あんな風に想像的な美しいイメージとして描いて終りというのは、たんに手馴れた「多和田葉的なやり方」でしかないだろう。どうしても最後にきて急速に息が切れて終わってしまったという感じだ。ここでは、ナミコの歪んだ悪意が、具体的な復讐という形として描かれる必要が是非ともあったのではないだろうか。ここで終わってしまうと、ナミエはただぬるぬるした感触の嫌な存在という「役割」で終わってしまって、そうするとコンドウとヤスコの関係(とカツオの関係)、カツオと母親の関係、サヤとカツオとミナコの関係などの具体性が皆弱くなってしまうのではないだろうか。
●最近では、多和田葉子の本は出ると一応買いはするのだが、全然読んでいなかったのだけど、ちゃんと読もうと思ったし、これからも多和田葉子の小説の読者でいようと思った。『球形時間』は成功している小説とは思えないが、そう思える位には興味深いものだった。