02/02/17

モーニング娘。の新曲というのをテレビで観た。以前この日記でも『恋愛レボリューション21』について触れたことがあったけど、その時の過激さと言うか、刺激的な感じはもうなくなっている。モーニング娘。は、多分爛熟期のような段階へ入っていて、特にファンでもない者がチラッと見て面白いとかいうものではなくて、全肯定するか、あるいは無感心でいるかの、どちらかでしかないような感じになっているように思う。曲の作り方にしても、引用の寄せ集めであることに変わりはないとしても、以前のように過剰なまでに断片化させた細部をこれでもかと凝縮させてゆくのではなくて、ほとんど「メドレー」のようにしか聞こえない、断片同士のゆるい結びつきによって出来ているように思う。テレビでのパフォーマンスを見て思ったのは、かつてNHKで日曜の夕方6時くらいにやっていたアイドル番組(たしか『レッツゴー・ヤング』とか、そんなタイトルじゃなかったっけ)で、アイドルが何人も集まって(スクールメイツとかも加わって)、洋楽のヒット曲なんかを日本語に訳した詞でメドレーをやっていたような、そんなゆるーい場面の記憶とダブッて、既視感を感じた。13人という人数の多さにもよるのだろうけど、1人1人の個性というかキャラクターをあまり前面には押し出さないような曲やダンスの構成のせいなのか、80年代の、それもNHKのアイドル番組だったからこそ可能であったような、のっぺりとしたゆるさ、のようなものを感じたのだ。
モーニング娘。は常に大勢で、一塊でいることによって、そこに現在のテレビ内空間に流れている空気とは別種の、温度も湿度も濃度も異なる空気をつくりだしているように思う。それは疑似家族的な、擬似的な愛情によって成立している空間で、隙さえあれば他人を出し抜いて「オイシイ」ところをもっていこうとする人たちの緊張感に満ちた空間ではなく、誰かが何かを主張しようとした時は、みんな静かにしてちゃんと聞いてあげましょうね、という空間なのだ。(勿論、そう「見える」というこであって、実際にそうだとは思えないのだけど。)小学生たちがモーニング娘。に入りたいと願うのは、そこが華々しい場所に見えるからというだけでなくて、むしろ一種の「アジール」のような避難場所に見えるからではないだろうか。そんなものが「面白い」かどうかは分らないけど、しかし、何で面白くなくちゃいけないの?、そんな何でもカンでも「面白い」必要があるの?、と言っているようにも感じられる。『ハロー、モーニング。』(この番組名が正確なのかどうか自信はない)のような番組の特異性は、それが全くの仲間内だけのノリ、つまりどこにも「悪意」や「敵意」を書き込む余地のないような空間として成立しているように見えるところにあるのではないだろうか。そこには、愛情のこもった視線以外のものを全く想定していないような「恥ずかしい」無防備さがある。そこに「幸福感」をみるのか「ウソ寒さ」をみるのかは、人によって違うだろうけど。