02/02/20

●絵を描くということ、制作するということを、何か特別なことのように神秘めかして言うのは好きではないのだけど(たとえ神秘めかしたとしても、人がそれを納得してくれるようなエラい作家でもないし)、それでも絵を描くには多分スポーツをする時に近いようなある種の感覚の「冴え」のようなものが必要で、いや本当は「冴え」に頼って描いているようでは画家とは言えず、描く時に必要な運動感覚の「正確さ」と言い直すべきなのだが、しかし実際は特別に天才的という訳ではない人(ぼく)の感覚はその日や体調によって微妙なズレがあって、スポーツ選手だったらそのような感覚のズレはタイムなり成績なりによって顕在化するので気付きやすいかもしれないが、アトリエに1人で閉じこもって長い時間をかけて制作していると、微妙にズレはじめた感覚に気付かず、ズレにズレが重なってどんどん大きくなってもまだ気付かないということもあり得るのだ。(いい感じの作品を作っていた人が、ちょっとした枝葉末節なことに引っ掛かって、みるみる駄目になって行くことはよく見られることだろう。)きっちりとした方法や明解なコンセプトによって制作する訳ではなく、まさに手探りの「手」の感覚を頼りに仕事をすすめてゆく場合、その「感覚の正確さ」以外には基準とすべきものは何も無いと言ってもよい。それでも、この感覚のズレは、自分に親しいやり方、ある程度手馴れたやり方で(職人のように)制作している場合は、ある一定の範囲内で納まってくれるものだし、より正確さを求めるのなら、規則正しい制作、つまり毎日決まって同じ時刻に同じ時間だけ制作するということをする必要があるだろう。しかし実際には、よほど大家でもない限りそのよう生活は不可能だろう。特に今までとはちょっと違ったことを始めようとする時、自分の感覚の正確さに対してある程度自信がもてなければ、それに踏み切ることが出来ない。
ズレをチェックする一番てっとり早い方法としては、自分がその「目」を信頼している人にアトリエまで出向いてもらって、「こういう感じなんだけど、どうかなあ」と聞いてしまうということだろう。これはとても有効だし必要なことだとは思うが、しかし、制作の途中で他者の目に触れさせるというのは非常に危険なことでもあって、それまで自分の内部で割り切れないままで持続してきた、「簡単には割り切るべきでない何か」が、フッと切れてしまうことがあるのだ。(それによって良い、あるいは面白い効果=結果が生まれることも勿論あるのだが。)それに、感覚というのは一晩寝るともう微妙に違ってしまうようなものなので、1人でできるだけ簡単にできるチェックの方法というのが必要となる。ぼくが実際にどのような方法でズレのチェックをしているかについては、あまりに馬鹿みたいなことだし恥ずかしいので具体的には書かないけど、でもそれは実は、客観的なチェックというよりも、半ば気休めというか、「おまじない」に近いものだったりもする。
●ここでぼくが「感覚の正確さ」と言っているようなものは、実はある感覚(あるいは趣味)の基準をつくりそれを保証しているような「共同体」によって要請され強制されたものでしかないとも言える。つまり、ある職人的な正確さは、その職人を必要とする社会によって要請される訳だ。だから本当は「芸術」と呼び得るようなものは、そのような感覚の正確さを無効にしてしまうような、その外側にあるようなものであるはずなのだけど、それはもう個人としての「芸術家」のコントロールを超えたものである訳だから、そのことを考えても仕方がないのだ。(個人としては愚直に仕事をするしかない。)しかしそれでも、そのような「凄いもの」はあるのだ、ということだけは、言っておかなければならないと思う。