02/02/25

●『重力』を購入する。まだ討議とインタビューしか読んでいなくて、作品=内容にまで踏み込んではいないのだが、この試みが興味深いのは、「お金と流通過程」という部分についての実験=実践、つまり市川真人氏の言う「文芸作品の可能な流通のあり様について」の探究であり、それをオープンにしているという部分だろうと思う。(《「いいものを書けばそれですべてがが解決する」というのが、これまでの、主には「文学」が、ずっと保持してきた態度であり問題じゃないかと思う。(市川)》《だからそれは「いいもの」じゃなかったんだよ。「恒産なくして恒心なし」ってことは、必要条件を欠く人間にはそもそも十分条件も満たせない、ということでしょう。(...)「いいもの」を書くためにこそ、それ以前の基本条件を率直に論じるべきじゃないかな。(鎌田)》)もし、ただ作品の「内容」だけが問題であったら、または、それぞれに差異を含んだ複数の者が緊張感を孕んで連合する、ということだけが問題であったならば、そのような場を誰にも「たかる」ことなく自立したものとして持続させてゆくことが問題であるならば、「同人誌」などという古くて重たいメディアを採用する必要などなく、例えばそのような場をウェブ上に設定する方がずっとリスクも小さいし有効であるように思う。ただウェブという場は、条件としてはあまりに安易にそれが実現できてしまう分困難である、つまり、「空想上の勝利」に陥ってしまうことを抑制してくれるような、「現実」が突き付けてくる様々な問題を見えにくくしてしまう危険が大きい、ということだろうと思うのだ。あくまで現実として今ある出版・流通という制度をある程度前提として、そのなかでどのようなオルタナティブがあり得、それをどのように存続させつづけてゆけるのか、という実験であり実践なのだろう。そしてそれが、どのように上手くゆき、どのように上手くゆかないのか、それに対してどのような展望があり、またはないのか、ということを具体的な形でオープンにしてくれる限りにおいて、『重力』は常に刺激的であるだろう。(そう考える場合、例えば鎌田氏の《原則に服従しない自立はないと思うんですね。柄谷さんを叩く時でも、原理と原理の闘いっていうふうに持ち込むべきではないですか。》というような厳しい原則主義みたいなものは、批評というレベルではとても立派なことだとは思うけど、現実の運動のなかではどうなのだろうかという疑問も感じる。それよりも個人的には市川真人氏のクールな現状分析の方に刺激を感じた。しかしそれは、「いろんな人がいるということは重要だ」という馬鹿みたいに当たり前のことを教えてくれるものでもある。あと、いつも他人の悪口や文句ばかりを言って、徹底して「嫌な奴キャラ」に徹している大杉重男という人の存在も、得難い貴重なものだなあ、と感じた。)
「恒産なくして恒心なし」というのは全くもっともなことで、どこかに凄い奴が隠れていて、そいつがいきなり凄い作品をひっさげて登場し、低調な現状を一気に解消してくれるかもしれない(あるいは「自分」がその凄い奴であるかもしれない)という期待をどこかでもってしまっているとしたら、それは間違いだとはっきり認識しなければいけないと思う。初打席で「チームの優勝をきめる逆転満塁サヨナラホームラン」を打ってやるのだ、などという野心はたんにバカげたものでしかない。ホームランを打ちたいのなら、まずその前に、ある程度恒常的に打席にたつことができる、という条件を獲得するために努力すべきなのだ。(これは、あんまりいい例えじゃないけど。)それは、一定の緊張感をもって作品をつくりつづけられるための条件を、日常生活のなかで確保しなければならない、ということなのだと思う。「お金と流通過程」の話など、正直言ってまったく鬱陶しい話で、そんなものに煩わされずにできればただ作品をつくることだけに集中したいものだといつも思うのだが、しかしそれは現実には不可能なのであり、それが可能だと思えた瞬間があるとしたら、恐らくその瞬間に何かが間違っているのだと思う。(しかし間違っていも「凄い作品」をつくる奴というのは実際にはいる訳で、そこらへんが、鎌田氏のように《だからそれは「いいもの」じゃなかったんだよ。》とは言い切れないのだが。)だから「お金と流通過程」について真剣に考えている人の話はいつも興味深く、刺激的なのだろう。でも、本当の問題はその先にあるのであって、それは作品の「質」ということであり、それが信じられないのなら、たんに「売れることが「社会性」だ」ということにしかならない。