02/02/27

●「よりぬき偽日記」に『got to give it up(映画・読書・その他、17)』を追加しました。
●夕方、アトリエへ行く途中に駅前にある小さなCD屋に『Eclectic』を買うために寄った。このCD屋の前は毎日のように通るのだけど、ここで買い物をすることはほとんどなくて、CDを買おうという時はどうしても外資系の大型店に行ってしまいがちだ。前にここで買い物をしたのは確か椎名林檎の『絶頂集』で、つまりどこでも平済みにして大量に売っていそうなCDを買う時にしか利用しないということになる。店に入ったらレイアウトが全く違っていたので戸惑ってしまった。で、話題の小沢健二の『Eclectic』と、ついでにオザケンが日本版のみのボーナストラックに参加しているマービン・ゲイのトリュビート・アルバム『Marvin is 60』を買う。でもこのアルバムでオザケンは本当にただ歌っているだけで、本編の方で同じ『got to give it up』をカヴァーしているZHANEとバックトラックが全く同じだった。とはいえ、99年に出たこのアルバムの時点でオザケンは既に『Eclectic』に近い発声というか歌唱法を聞かせているので、このアルバムに参加したことはとても重要な事だったのだろうと思われる。
小沢健二という人は、恐らく同じことを2度やることが出来ないのだ。これはアーティストとしてはとても不自由なことだ。小沢氏にとって新しい作品を作るということは、だから新たな学習対象を見つけ、それを自分のものにするという過程を経ることが必要となるのだろう。あるモチーフを一貫して追求していて(あるいはある得意技があって)、それを展開させてゆくというような作曲家ではないし、その人が歌えばどんな曲でも聞けるものになってしまうというようなボーカリストでもない。ひとつのゲームをクリアしたら、また別のゲームを見つけて最初から始める、という感じなのだと思う。(勿論、いきなり突飛なことを始めるということはなくて、ある「趣味」によって統一されてはいるのだが。)だから、ひとつひとつのアルバムの完結性が高いのだし、新しい作品ができる度に以前の作品を否定するということになってしまうのだろう。(どの映画でも、堂々と同じことばかりをする神代辰巳とか、自分はずっと一冊の本を書き続けているのだと言う金井美恵子とかとは、根本的に違う訳だ。)しかし、「新たな学習対象」とは言っても、これからはこれが流行るだろうとか、この次はこの辺りを狙ってやろうとか言うのではなくて、その時々の自分のリアリティーにピタッとはまっている「何か」でなくてはならないという点で、例えば筒美京平とかつんくとかとは違うと言える。(絶対的なボーカリストという訳ではないのだから、いつも自分の「声」で歌うということを前提にしているというのは、作曲家、プロデューサーとしてはかなり「枷」になっていると思うのだが、実はその「枷」こそがリアリティーの根本にあるとも思える。)つまり、アーティストともプロデューサーとも言い切れないような、微妙に中途半端な場所に立っていると言えるだろう。
まだざっと数回聞いただけなのだけど、『Eclectic』は結構イイのではないかと思う。厳密に抑制されていると同時にそこから何かが漏れてしまっているようなエロティックな声(自分の声の適正な使い方をやっと見つけた、という感じもする)、シブさを漂わせながらも妙に俗っぽいところもあるサウンド(アダルトでセクシーでソウルフルでニューヨークだよなあ、でもそれ全部カタカナなんだよなあ、という感じ)、本格派っぽくもありつつどこかヘナチョコ感も拭い切れない、それら互いに矛盾するような要素が、程よく調和しているかと言えばそうでもなく、どこかアンバランスな危なっかしさを感じさせる、この半端な感じ、安心し切ることのできない感じこそが小沢健二っぽいセクシーさなのだと思う。この声で無謀にも「歌い切って」しまいました、という初期の勢いある潔さとは違って、きちんと冷静にコントロールされている分だけかえって「弱さ」が目立つと言えるかもしれないけど、その「弱さ」も含めてこの「声」はやっぱりかなり魅力的なのではないだろうか。コーラスのちょっと変なアクセントの日本語に吊られて、ボーカルの日本語まで微妙にアヤシクなってしまう時の揺れ動き、本物っぽくもあり、まがい物っぽくもあるようなヴェルヴェットの肌触りと暗くも艶っぽい光沢。