02/03/04

●『Eclectic』について話していて、「あのアルバムについて官能的なんていうのは意味ないですよ、あきらかにそう聞こえるように作ってあるんだから、むしろ禁欲性について言うべきですよ」と言われた。例えば声を禁欲的なまでにコントロールしていること、オザケンオザケンたる所以である、あの声や言葉(詞)を前に出すのでは無く、サウンド全体やリズムのなかに半ば埋もれてしまうかのように、あくまでそのなかの一つのパーツとして使用していること、少ない音数を練りに練った上で配置していること。今までのアルバムは、それ以前の仕事に対する強い「切断」の意志によって際立っていたのだが、『Eclectic』においては「切断」を強く押し出したりはせず、あらゆる方向で何かが突出して「際立って」しまうことを周到に避けているように思えること。(ジャケットのデザインなんかも「禁欲的」だと言える。あれがWTCテロを意識しているなんて、あまりに「そのまま」なので指摘されるまて気付かなかったのだが。)
小沢氏のアルバムで、「詞」がこんなに主張してこないというのも珍しいと思う。しかし、かと言って「詞」がサウンドやリズムに従属しているかと言えば必ずしもそうとは思えなくて、むしろ禁欲的なまでに英語を排除している詞は、ところどころでリズムとの軽い齟齬をきたしている。例えば『今夜はブギーバック』において「ぼくとBabybrother」だったのが「ぼくと友達が」に変化しているのだが、明らかにリズムに対するノリということからすれば「Babybrother」の方がピタッとしているように思え、「とーもーだーちが」ではちょっと間が抜けた感じで、そこにちょっとした滞った(あるいは籠った)ような感じが生まれ、タイトと言うより弛んだ感じの違和感が生じている。(ここはこの言葉で本当にいいの?、という部分が結構ある。)しかしこのような違和感は、違和感として取り立てて意識されるというほどのこともなく、何となく胸に引っ掛かるもやもやしたもどかしさが掠めるだけで、次へと流れていってしまうので、「仔猫ちゃん」とか「神様を信じる強さをぼくに」とかみたいな、違和感が違和感を突き抜けていってしまうような「言い切ってしまう強さ」とは全く違う。言ってみればこのアルバムは、「違和感として取り立てて意識されるというほどのこともな」い「何となく胸に引っ掛かるもやもやしたもどかしさ」のようなものを丁寧に拾い集めて、それらを周到な計算によって生真面目に組み合わせて組み立てるようにして作られている、という感じがあるのだ。だから、「突出した」違和感は、周到にそして禁欲的に避けられている。確かにこの「禁欲性」は、大人になったからと言うよりも、内向的になったからだと言う方が正確なのかもしれない。(でも、歌謡曲的な俗っぽさというのも、ちゃんと随所に感じられると思うけど。)
●まったく関係のないどうでもいい話だけど、ぼくは松浦亜弥を見る度に「濱田マリ」を思い出す。思い出すと言うより、この2人のイメージはぼくのなかでは切り離し難く結びついてしまっている。松浦亜弥の表情、喋り方、仕種などは随所で「濱田マリ」と連結していて、一塊のブロックを形成している。いや、似ているとか似ていないとかじゃなくて。