02/10/31

●最近、アーシル・ゴーキーという画家(これ、とか、これ、とか、こんな、感じ)の存在が気になっている。例えば、去年から今年にかけてかなりの量を観ることが出来た岡崎乾二郎のペインティングを観ながら、チラチラと頭に浮かんでいたのがゴーキーのことだった。勿論、岡崎とゴーキーとは全然違うし、岡崎がゴーキーを参照しているという事でもない。でも、岡崎氏がペインティングを制作している時に、どこか頭の隅にでもゴーキーの記憶がちらついてはいなかっただろうか、と思う。(色彩、特に赤や黄色の機能のさせ方や、散らし方に、ふとゴーキーを感じる部分がしばしばあった。)不幸な生涯をおくったアルメニア出身のアメリカ画家であるゴーキーは、一般的には、故郷であるアルメニアの風景や人物(抽象的な作品においてもそれを強く想起させる)を、境遇が不幸であるために一層強く、ノスタルジックな幸福感によって輝くように描いた画家だとされている。それは間違いではないだろうし、特に初期から中期にかけての、まるで陶器のような絵肌をもつ作品については全くその通りだと言えるのだが、しかし1940年頃から自殺する48年くらいにかけて制作された、薄塗りの絵の具や筆跡がはっきりと残るタッチが使われた、植物とも動物とも人物ともつかない有機的な形態が現れる作品になると、幸福感というよりも、むしろあからさまな破綻が目立つように見える。簡単に言うと、オートマチック風の線(実は厳密なエスキースがある)と、何かしらの事物の形態を示す描写と、その事物が置かれている空間を生成する色面と、そして事物と空間を媒介するようなどっちつかずの色面=形態という4つの要素が、なにかいまひとつピタッと噛み合っていなくて、どこかバタバタした感じの作品が増えてくるのだ。この時期の作品では、幸福感は作品から滲み出てくると言うよりも、バタバタしがちな作品を統一するためにあらかじめ設定されたトーンのようなものになってくる。この時期の作品で成功しているものは、あらゆる要素がぴったりと決まっているのではなく、ある統一されたトーンによってなんとか「納められてる」という感じなのだ。だからこの時期のゴーキーの作品から、ノスタルジックな幸福感という感情的なトーンを差し引いて考えてみると(つまり、あまり出来の良くない作品を観てみると)、趣味の良い、幸福感に満ちたゴーキーの画面が、とたんにアナーキーで、統覚を失った危ういものに見えてくるのだ。
●ゴーキーは美術史的にはマイナーな位置しか与えられていないし、実際に作品を観ても、とても良い画家ではあるのだが突出した感じはあまりしない。しかしゴーキーが戦後のアメリカ美術のなかで「触媒」として果たした役割は計り知れないくらい大きい。もしゴーキーがいなかったら、おそらくポロックもロスコもニューマンもあり得なかっただろう。(もしグリーンバーグがいなくても、たんに評価されるのが遅れただけでポロックポロックになっただろうが、ゴーキーがいなければポロックのあの形式はあり得なかっただろう。)同じアトリエで制作していたデ・クーニングを通じて、ゴーキーは当時のニューヨークスクールの画家たちに大きな影響力を持っていた。それは抽象表現主義の画家たちが、初期には皆、ゴーキーを思い切り下手くそにしたような、シュールレアリズムの出来損ないのような絵を描いていることからも分かると思う。ゴーキーが果たした触媒としての役割で最大のものは、シュールレアリズム風のオートマチックな線を、セザンヌからマティスへと至る西洋絵画のフォーマルな流れのなかへと導入することが出来ることをはっきりと作品によって示したことだろう。(シュールレアリズムにおける無意識=オートマチズムは何より、反フォーマル、反芸術としてあった。つまり両者は水と油だった。)この両者の接合なしに、ポロックのドリップ絵画はあり得ない。と言うか、ゴーキーの40年以降の作品によって、抽象表現主義を可能にした基底的な感性が形成されたと言うべきなのだ。しかしゴーキーは、他の抽象表現主義の画家のように、過激な形式化へとははしらずに、あくまで中庸であることに留まる。(実はこの中庸さこそが、シュールレアリズムとフォーマリズムとを接合を可能にさせたのだが。)ゴーキーは、例えばミロなどに比べればはるかにフォーマリストであるが、アメリカの画家たちのようには極端な形式化へとは向かわない。ゴーキーには揺るぎないものとしての「豊かさ」や「良きは趣味」があり、画家としての確かな「手」の技術があった。対して、他のアメリカの画家たちは、下手くそで教養も無かったので、突っ走って突き抜けるしかなかったのだし、それが出来たのだった。(ゴーキー的な中庸さ、中途半端さを見失わなかった抽象表現主義の画家には、例えばフランケンサーラーのような人がいるだろう。しかし、彼女にしてもゴーキーに比べれば、随分とすっきり分かり易くなってしまっている。)
●ゴーキーの40年代の作品は、アメリカの抽象表現主義を可能にするための感性を準備した。しかしゴーキーの作品自体はあくまで中途半端でどっちつかずであり、危うい破綻の芽が組み込まれていて、しかもそれを排除したり統合したりはしようとしていない。それは、抽象表現主義の過激でありながらいささか単純化されすぎた展開とは異なる可能性を、今でも持ち続けているように思う。その作品は未だに未完成でありつづけており、その未完成さ、中途半端さよって(その作品に思わず「手を加え」たくなってしまうような)、創造的な刺激として機能しているのではないだろうか。
(つづく)