昨日からのつづき、ゴーキーについて

(昨日からのつづき、ゴーキーについて)
●1940年以降のゴーキーの作品は、厳密には抽象とは言えず、風景だったり室内だったりを思わせる空間に、植物とも動物とも人間ともつかない有機的な形態が事物として配置されているようなつくりになっている。(昨日のリンク先を参照されたい。)つまり、3次元的な空間の表象が成り立っている。だがそこに描かれているのは、空間を形成する色面と有機的な(何だかよく分からない)事物を示す形態=描写だけではなくて、あきらかに空間からは浮かびあがっているが、しかし事物を示している訳でもない形態=色彩がある。それは空間でも事物でもなく、空間と事物とを媒介し、空間と事物とを共に活気づけるような形態=色彩である。そしてさらに、空間とも事物とも異なり、空間と事物とを仕切る輪郭でもない「線」の存在も忘れてはならない。ゴーキーの絵画における線は、たしかに輪郭線としての機能も保持してはいるが、それをはみ出しているのだ。ここでの線は、事物と空間とを同時に指し示し、加えて画面全体を成り立たせるためのリズムを形作っていると考えられる。そして、これらの要素は必ずしもしっかりと噛み合ってはいない。例えばゴーキーの線は、線それ自体がそのまま表現となるようなものではなく、妙に冷たく中性的でそっけないものだ。それでも空間のなかに自然にとけ込んでいる訳ではなく、中途半端に自分の存在を主張している。このことは空間と事物を媒介する形態=色彩にも言えて、つまり、自らの役割に透明に徹しようとしているのでもなく、だからと言って自分自身だけで表現として成り立つように自己主張している訳でもないのだ。だから、線や媒介的な形態=色彩が、時には事物よりも強く前にせり出してきたりする。その結果、画面がバタバタとしてしまい、観者は空間の構造を何度も見失っては、また立て直さなければならなくなる。ゴーキーの絵画は、基底的な3次元空間のなかに事物が配置されるという基本的な構造をもちながらも、実際にはそれが至るところで破け、異次元のようなものが亀裂として姿を見せてしまっている。シュールレアリズムの画家(例えばミロでもタンギーでも誰でも良いのだが)だったら、まず基底的な空間があり、そこに何だか良く解らない不思議な形態が浮遊しているという基本的な構造は常に安定している。だから観者は安心して容易にそこに描かれた形態の不可解さや多様さを楽しむことが出来る。だがゴーキーの場合は、基底的な空間が成り立っていない訳ではないが、決してそれが安定していないのだ。空間内部にある事物の形態を追っていたはずの視線は、いつの間にかそこからのがれて別のもの、無理矢理言うとすれば、本来空間の背後にあって「見えないもの」として空間を支えているはずの不可視のリズムとしてあるはずの線や色彩=形態に巻き込まれてしまうのだ。しかし画面全体としては決して無秩序な状態ではなく、亀裂をはらみながらも基底的な空間はなんとか成立しているので、彷徨った視線は再び空間的な秩序を回復するだろう。この事態を、抽象と具象の分裂、あるいは融合といった事柄として単純化してはならないだろう。作品によっては、その亀裂が比較的目立たないように抑えられているものもあれば、あからさまな破綻が見られるもの(実はこっちの方が多いと思う)もあるが、しかしどの作品においても決して破綻が消されてしまうことはない。このようなあり方は、抽象表現主義の「成功した」画家たちの作品よりもずっと複雑である。
●ゴーキーの作品を素直に観れば、複雑な亀裂を孕んでいるとはいえ、その構造は3次元的な空間の秩序の再現に負うところが大きいし、ノスタルジックな幸福感のようなトーンによって、事前にある感性の枠内に納まるようにコントロールされているもので、それほど過激なものとは見えないだろう。色彩にしても、とても趣味の良いものではあるが、例えばマティスのような「非世界的」としか言えないような強い表現力を持ったものではなく、あくまで趣味の範囲に留まっている。(ゴーキーはしばしば、画面を引き締めるためだけに、かなり安易に「黒」を使用する。これはとても嫌な感じで鼻につく。)亀裂と言ったところで、同じくマティスのような、色面と線、平面とボリューム、複数の重ならない空間、などを並置させその間のズレや差異そのものを作品の「強さ」として組織する程までには至っていない。あるいはセザンヌのように、亀裂を画面の隅々にまで行き渡らせて、画面全体をギシギシと軋ませる程の緊張には達していない。それはあらゆる意味で中途半端であるようにも思える。しかしその中途半端さにこそ、ある可能性が見いだせるようにも思えるのだ。ゴーキーの作品から、ノスタルジックで幸福な調子を差し引き、改めて厳しい形式的な視線を送る時、そこからまだ、現代絵画にとっても刺激に成りうるものが拾い上げられるように感じられる。