大道珠貴『ひさしぶりにさようなら』

●「群像」12月号の大道珠貴『ひさしぶりにさようなら』を読んだ。この作家の小説を今まで4作読んでいるのだが、題材という点ではとても貧しい人で、ほとんど同じような事柄についてばかり書いている。しかし、(全作品を読んでいる訳ではないが)一作一作の歩みは決して単調なものではなく、飛躍と断絶がみられ、常にある跳躍が試みられている。『ひさしぶりにさようなら』を読みながら、この作家がこのままのテンションで書き続けたら、一体どのようなところまで行ってしまうのだろうと恐ろしくさえ思った。一人の作家が、今、特異なもの、異様なものへと変化しつつあるという、生々しい感触が感じられるのだ。この作家の『裸』という本の帯に五木寛之が「最近、これほど笑いをこらえながら読んだ小説はなかった。」という言葉を寄せているのだが、ぼくには全く笑うことが出来ない。描かれている事柄があまりに生々しく迫ってくるので、いくら滑稽な事が描かれていても笑う余裕が無いのだ。(この生々しさに対処するには、小説の主人公がそうしているように、流れに見を任せつつも、状況を無関心にやり過ごすしかない。)読後感は決して愉快なものではない。できれば見たくないもの、目の端に確かに映ってはいるけど見ていないことにしたいもの、しかしそれが確実にリアルなものであることは誤魔化しようがないもの、が、決して露悪的にでなく、クールに(さわやかとさえ言える調子で)描かれているのだ。この作家の描く主人公は皆、世界のありようの直中に巻き込まれているのだが、しかし自分の身の回りの出来事に対してどこか無関心というか、疎遠な者たちばかりだ。この「巻き込まれていながらも無関心」という不思議な距離の感覚が、自他の区別が明確でない、ぬかるみのように未分化な集団の世界をクールに描き出すことを可能にしているように思う。このような距離感は、多分に「解離性同一性障害」的なものだとは言えるかもしれない。それに、誰でもがすぐに気付くこの作家の特徴として、父親の不在(しかし『スッポン』においては非常に立派な「祖父」が登場するのだが)という事が挙げられもする。父権的な抑圧の不在によって超越的なものへと至る経路をたたれていかかのようにみえる登場人物たちの行動は、まるで幼稚な「動物的」欲望と、「世間」や「家族」といった具体的な人間関係(上下関係ともたれかかり)だけに由来する。いや、彼らの場合ほとんど「世間」すら構成されず、ひたすら家族的な人間関係の内部でのみ生きているのだ。超越的なものが成り立たない徹底してドメスティックな世界に閉じこめられて生きる人物たちの姿を、解離性同一性障害的な視線から描く、と言ってしまうと、何だがいかにも「今どき」風で、現在をそれらしく表象しようとする小説のように聞こえてしまうのだが、重要なのはそういう単純な解読ではなく、そのような原理に基づいて紡ぎ出され、動き出す小説の言葉たちが、どのように異様な形象をつくりだし、どのくらい高い緊張で震えているのかという点にあるだろう。病名の特定などに意味はない。【世界とはさまざまな症候の総体であり、その症候のもたらす病が人間と混合される。文学とは、そうなってくると、一つの健康の企てであると映る。(略)作家はある抗し難い小さな健康を享受している。その小さな健康とは、彼にとってあまりに大きくあまりに強烈な息苦しい事物から彼が見て取り聴き取ったことに由来しており、その移行こそが彼を疲弊し切らせているのだが、しかしながら、太った支配的健康なら不可能にしてしまうようなさまざまな生成変化を彼に与えてくれてもいるのである。】(ドゥルーズ)