大道珠貴『しょっぱいドライブ』

02/11/12(火)
●「文學界」12月号、大道珠貴『しょっぱいドライブ』。この作品は『スッポン』や『ひさしぶりにさようなら』ほどには成功していないかもしれないが、しかし、この小説家が(ぼくが読んだなかでは)はじめて集団のなかの人物たちではなく、そこから切り離された個人と個人との一対一の関係を描いたという点で重要であると思う。『ゆううつな苺』で、主人公の中学生と英語教師との間が、このような関係として描かれてはいたが、それは重要ではあっても小説の終盤の一つのエピソードであるに過ぎなかったのに対し、この小説はほぼ一対一の関係だけで出来ていると言って良いだろう。(対比のためにもう一人の人物が回想として招き寄せられはするのだが。)自他が未分化な集団の内部で生きるしかない大道珠貴の登場人物たちにとって、他者との関係は集団の内部での役割や位置を媒介としてなされるか、そうでなければ家族的なべったりと密着したものでしかなかった。『しょっぱいドライブ』の九十九さんと主人公=話者の「わたし」にしても、30年以上前から知り合ってはいたが、関係が一対一のものになったのはつい2年前ということになっている。比較的裕福で人が良く、孤独な老人である九十九さんに、「わたし」の一家はバカにしながらもさんざん「たかって」いた。その「わたし」が兄の結婚を機に一家から距離を置いて「ひとり」になることで、「わたし」と九十九さんは一対一で向かい合うことになる。おそらく60歳代(しかしずっと老けて見える)の男性である九十九さんと、30歳代半ばの女性である「わたし」との関係は「恋愛のようなもの」となるだろう。しかしこの年の離れたカップルには、例えば川上弘美の『センセイの鞄』のように、読者を気持ちよくさせるものはなにもない。だいたいこの作家が「恋愛」などというものを少しも信じてはいないということは、いくつかの作品を読んでみれば明らかだろう。ここでは男女関係からあらゆる幻想性が剥奪され、ほんの僅かな官能性も与えられていない。この二人のすることといえば、何もない海沿いの田舎町をただ車で走り、せいぜい防波堤で釣り人によって打ち上げられたフグが干涸らびてゆくのを眺めるくらいだ。そして、やったのかやっていないのかよく分からないような性行をたった一度交わすだけなのだ。この二人は全く冴えないシケた人物で、「わたし」は、デパートの牛丼屋でパートをしながら地方劇団のスターの追っかけをやっている30女だし、九十九さんは、油揚げのような肌をした、印象が薄く、内股でなで肩で身体の線の細い、天然パーマで髪がいつも自然に内巻きカールになってしまう、ガタイの良い漁師に妻を寝取られたような、小金をもった人の良い孤独な老人なのだ。そして「わたし」は、故郷の町に戻っても肉親にも会わず、会いたいと思う人は九十九さんくらいしかいなくて、もしかしたら自分はこの人と暮らしてゆくのが似合っているのかもしれないとふと思ってしまい、そんな自分の将来に絶望的な思いすら感じている。この二人の関係は、たどたどしく不器用で、うきうきと心の沸き立つようなことはなく、全く「しょっぱい」しょぼくれたものでしかないだろう。しかし急いでつけ加えなければならないのは、そのしょぼくれた関係の「描かれ方」はちっとも投げやりであったり露悪的であったり自虐的であったりニヒリスティックであったりはしないのだ。むしろこのしょぼくれたしょっぱさのなかにこそ生の苛烈さがある。ここで描かれているのは、客観的に見れば絶望的なほどしょぼくれた生の、しかし、その内側の苛烈な強さと輝きであろう。それは開き直りでもない。この二人は開き直るようなずうずうしさとは無縁の存在であろう。今、この場にある限定されたしょぼくれた些細な生を、しょぼくれたそのままで、最も苛烈に生き尽くそうという強さがあるのだ、と言えば大袈裟過ぎるだろうか。そして、この二人のしょぼくれた人物たちのしょっぱい関係の、困難と輝きをともにもたらしているのが、二人ともが集団から離れて「ひとり」の個人として存在しているということにあるのだと思う。「ひとり」でいることによって、この「しょぼくれ」がたんなる「しょぼくれ」として輝き、社会的な「成功」(共同体のなかでの地位の向上)との比較によって生じる「しょぼくれ」とは別種の、純粋な生の出来事となるのだ。大道珠貴を読むということはとても過酷な(この作家には「愛嬌」というものが根本的に欠けている)ことなのだが、それはこの作家が、徹底してクリアーで即物的であろうとしていることからくると思われる。