02/11/23(土)
●昨日、国立近代美術館へ行ったのは、実は「連続と侵犯」を観るためというより、同時にやっている「コレクションのあゆみ 1955〜2002」を観るためだった。以前にやった「「未完の世紀・20世紀がのこすもの」を観た時もちらっと思ったのだが、国立近代美術館のコレクションには、どうも熊谷守一という名前が抜けているらしいのだ。日本の近代美術のコレクションに熊谷が抜けているというのは、「国立」の美術館のコレクションとしては充分とは言えないのではないだろうか。良くも悪くも、日本的な趣味というものを近代的な絵画として最も洗練された形で実現した画家であるし、その「趣味」は、現在の我々をもなお束縛しているという意味でも、熊谷は非常に重要かつ強力な画家だと言うべきだと思う。その作品の完成度だけでなく、おそらく自分の技術や趣味に相当な自信をもっていただろうと思われるにもかかわらず、「下手も絵のうち」とか言ってしまう(考えようによっては欺瞞的とさえ言えるような発言だ)ような「外れ志向」のあり方や、いわゆる「天然」的なものを好ましく思うような感性のあり方まで含め、熊谷的な、洗練を洗練とは見せないような洗練のさせ方などは、現在においてもなお我々を魅了し、同時に強力に束縛するもの(感性の形式)として、大きく厚い壁として作用している。(熊谷の発言、「絵なんてものは、やっているときは結構難しいが、出来上がったものは大概アホらしい。どんな価値があるのかと思います。しかし人は、その価値を信じようとする。あんなものを信じなければならぬとは、人間はかわいそうなものです。」これなんか確かにカッコイイのだが、しかしこういうかっこよさ、こういう言い方をカッコイイと思ってしまうような感性って、もの凄く強力な「形式」として我々、つまり「日本」という場所に生起する人々の感情や行動を縛っているように思う。)例えば、海外である程度成功することの出来た、国吉康雄藤田嗣治などの作品を現在の目から熊谷と比べると、国吉や藤田がアメリカやフランスという場所での自分の「売り」を意識することを強いられていた分、どこかひ弱く感じられ、熊谷の愚直さ(しかしそれは実は、熊谷がある程度ドメスティックな感性を信頼しながら制作することが出来たということによって可能になった「洗練」の効果として、「愚直に見える」ということだと思うのだが)の方が、力強く見えてしまうのだ。しかしそれにしても、熊谷守一の作品は素晴らしく、ぼくはとても好きなのだ。だが、その素晴らしさには同時に、どこかで自分を強力に縛り、限定させてしまう罠が含まれているような感触がある。だが、熊谷の作品の素晴らしさをたんにドメスティックな趣味として切り捨てることは出来ない。このような危険な感じ(日本近代美術史上で普通にメジャーな「国民的画家」であるだろう、安井曾太郎とか梅原龍三郎とかには、このような危険な匂いはないと思う)も含めて、熊谷守一はとても重要な作家であると思われる。