『顔のない眼』『コンセント』

●DVDでジョルジョ・フランジュの『顔のない眼』、ビデオで中原俊の『コンセント』。
●『顔のない眼』が怖いのは、その物語によるのでも、物語の語り方(サスペンスやサプライズ、あるいは残酷な描写など)にあるのでもなく、そのイメージにある。いくつものドアと階段とを抜けていかなければならない程の「奥の部屋」に、顔を失った少女が仮面を被ってベッドに横たわっているというイメージ。その仮面は決して異様なものではなく、むしろ少女の自然な表情を模したものであり、その仮面から覗く「眼」も特に雄弁な表情をもっている訳ではない。少女を後ろから捉えたショットが示す、うなじが露出される髪の短さや、それによって強調される首の細さ、そして少女が着ている部屋着とは思えない光沢のある素材で襟の立ったコート風の洋服などが、さらに少女の存在を限りなく無表情なものへと近づける。顔を失われているということは、表情を失われているということだ。どのような感情に支配され、どのような状況に置かれても、一貫して無表情な存在でありつづける女。そのようなイメージに対する恐怖とエロティックな愛着とがこの映画の根本を支えている。
●『コンセント』は面白かった。中原俊は、田口ランディによる原作に対して、恐らく何の思い入れもなく、反発もなく、たんにベストセラーの小説をネタにして自分の映画を組み立てることしか考えていないと思われ、そのような覚めた職人的な「物語への距離感」が、非常に映画にし難い物語(つまんない説明的なセリフとかをどうしても沢山入れなくてはならないし)を使って、いかにも中原的な映画をつくることを可能にしたのだろう。この映画で収容なのは「語り」ではなく「描写」だと言っていいだろう。普通ならどう映画にしたって面白くならないような話を、冴えた演出と、映画的な小技(描写)をふんだんに投入すること、そして何よりも主役に市川実和子をもってくることで、とても魅力的な映画にすることに成功していると思う。兄を亡くしたことをきっかけとして自分の能力に目覚めはじめ、周りの人々を癒す現代のシャーマンへと覚醒してゆくという、何とも困った人物像が、市川実和子という女優の独特な雰囲気をもった身体によって演じられることで、とても魅力的な人物として造形されている。幾つかの短いショットの積み重ねで家族関係の複雑な含みまで的確に描写し、どうしても夢や回想で物語を説明しなければならない安易な構成を、夢や回想へ突入する際に様々な映画的技法を凝らすことで救い、現代のシャーマンという詰まらないキャラクターは、市川の存在によって、過度に匂いなどに敏感な感受性の強い女性と読み替えることが可能になり、それがこの役にリアリティーを与えている。なんだかんだ言いながらも、死んだ人は皆やさしい人で、生きている人はそれぞれに傷をもっていて、その人の存在が肯定されることで傷が癒されてよかったね、という自己解放の話に収斂されてゆく物語を、個々の登場人物にそれぞれのリアリティーを持たせ、人物と人物との関係を丁寧に演出してゆくことで、中原的な「関係による群像劇」に近い方向へと開いてゆくことへも、ある程度は成功していると思う。(しかしそれにしても、大学の教師でもあるカウンセラーの、まるでコントみたいなキャラクターはどうかと思う。あの役に、ある程度強烈なキャラが必要だというのは分かるが、それにしてもやりすぎじゃないだろうか。ラストでこのカウンセラーが市川によって「癒される」シーンをほとんど冗談のように演出することで、この映画における「癒し」のテーマ全体を悪い冗談として無化してしまうために濃いキャラが必要だったのだろうか。それにしたって、ラストのそのシーン自体が全然成功してないと思うし。個人的には、病院のベッドで目を覚ました市川が、自分が錯乱状態になって裸でジャングルジムから飛び降りたのだと聞かせられ、大声で笑うところで終わってもよかったのではないかと思う。まあ、それだといくら何でも原作のファンに対して不親切すぎるかもしれないが。)ピンク映画の作家として腕の見せ所でもある性的な描写も冴えている。映画全体としてとても丁寧に作り込まれ、冴えた小技(描写)がふんだんに盛り込まれているので、それを観ているだけでとても楽しい。ぼくは中原俊という監督を特に好きだということではないのだが、実力のある作家が、自分の実力を充分に発揮しているのを観るのは、それだけで歓びであるのだ。(あと、この映画にはつみきみほが出ていて、『櫻の園』の頃と全く変わらないたどたどしさで喋るつみきみほを見るためだけにでも、一見の価値がある。市川とつみきが共に出演する場面が、ぼくが凄くよく知っている場所でロケされていて、それにはちょっと驚いた。)