●昨日、緑地からごそっと拾ってきた落ち葉、【様々な色(赤、赤茶色、焦げ茶色、赤錆び色、黄色、黄土色、黄金色、黄緑色、うぐいす色、緑、緑がかったグレー、暖色系のクリーム色、濃い青紫....)、様々な形態(丸かったり、細長かったり、ギザギザだったり、下膨れだったり、くしゃくしゃだったり、シュッとしていたり....)、様々な大きさ、あるいは、乾燥してバサバサだったり、まだ瑞々しさが残っていたり、裏だったり、表だったり、の落ち葉】を、アトリエの隅で、下にドローイングに使う紙を敷いて、バサバサッと散らしてみると、もうそれだけで、そこに非常に充実した状態が出現する。この、アトリエに出現した散らされた落ち葉の状態が、否応なく、ここに並んでいるぼくの作品を相対化する。とりあえず、これに拮抗するだけの複雑さと強さが作品に要求されることになる。これはモチーフではなく、ある基準点、あるいは現実世界とのほんの僅かな接点のようなものだ。
作品とは現実の次元にあるというより抽象的な次元にある。もっと言えば、作品とは実際に存在する事物を使って(それを加工することで)構築される、ある抽象的な関係性であり、その複雑さ、強さのことだ。だからそれは一旦現実から切り離されている。(現実の反映や図解ではない。)しかし、それは抽象的ではあっても、その複雑さ、強さによって、その作品だけの、固有の抽象性とでも言うべきものを持つ。例えばある種の美術家だったら、紙の上に散らされた落ち葉がとても充実したものであれば、それをそのまま作品とするだろう。しかしそれは根本的に間違っているのではないかと思う。作品とは、例えば絵画なら、その状態をいったん解体して、キャンバスと絵の具の関係によって形成される構築物へと、いわば「翻訳」されなければならないのだ。そのことによって、現実の無数の諸関係の束としてそこに実現された「ある状態」が、現実上の諸々の関係からいったん切り離されて、浮遊したものとして別の次元へと移行し、保存され、味わわれ、検討されることが可能になる。制作が翻訳だというのは、それが天才による奇跡的な技巧(あるいはヒステリー的な幻想)というより、ぶつぶつと呟くように行われる理性的な思考であるということだ。ただ、その思考は美的に行われる。ここで言う美的とは、カント的に言えば、決して善(現実に対する運動)にも真(科学的な探求)にも還元されてしまわない場所において世界に対する思考を行うということで、いわゆる「美しさ」とは関係がない。勿論そのような場所が自然にある訳ではなく、努力して何とか確保しなければならないのだが。