「芸術学のメソドロジー」(岡崎乾二郎、石岡良治、上崎千、松井勝正)

多摩美術大学で行われた「芸術学のメソドロジー」というシンポジウム(岡崎乾二郎石岡良治上崎千、松井勝正)を見に行った。このシンポジウムの基調をなすテーマとして、視覚的な芸術作品と、それを言語によって分析・記述することの関係みたいなことがあったと思うのだが、冒頭の石岡氏の発言に対して、岡崎氏から暴力的=教育的なツッコミがはいったこともあって、議論は錯綜し、脈略のよくみえないものとなっていった。特に前半は、ずっと黙って聞いていたかと思うといきなり全体をかっさらってしまうような発言をする岡崎氏の頭の良さばかりが目立つということになってしまった。「脈略がよく分からなかったけど、こういうことでいいですか」とか「難しい話なので要約するとこうですか」、「ぼくが司会をやっちゃうのもへんだけど、こういうことですか」などと言いながら、強引とも言えるやり方で流れをつくった上で自分の意見を述べる岡崎氏に対して、他の3人はその発言を肯定するにしても否定するにしても、柔軟に受け止めて何らかのリアクションを起こすことが出来ないままポカンとしているという印象だった。これは3人の若い研究者たちとは、「場数」の踏み方が違うということでもあるだろう。見方によってはとても意地の悪いとも言えるやり方だけど、おそらくこれは「教育的な効果」を狙ってのことなのだろう。明らかに圧倒的な実力の差がある時、ある程度相手を泳がせておいてその出方を見極め、ある地点で暴力的に力で押さえ込む。「教育者」としての岡崎氏のやり口が何となく垣間見えたように思えた。(シンポジウムで、ものを見るにも「勝ち」と「負け」とがある、という話が出たのだが、岡崎氏は生徒に対して徹底して「勝ってみせる」ことで教育をする、まるで武道の達人のようなやり方をするのではないだろうか。)こんな「師匠」が近くにいるとその生徒は何と恐ろしくかつ鬱陶しいことだろうと思うのだが、やはりそれでも、優秀な師匠がいるということは本当に羨ましいとも思う。このような岡崎氏の暴力的=教育的な介入を、カリスマによる抑圧ととるのか、それとも自らを鍛えるための絶好の機会だと捉えるのかは、ひとえにその披教育者の「器」の大きさにかかっているのだろう。
●岡崎氏のイメージに関する考え方はとても興味深い。冒頭の発言で石岡氏が、イメージという言葉をたんに絵画作品そのもの、あるいはその図像という意味で用いていたのに対して、岡崎氏は、それはぼくの考えとは違うと言い、イメージとは、それを具体的に読み込もうとするより前にある、それが読み込むに値するものだ(ひとつの「全体」を形づくっているものだ)という確信、あるいは予感のようなものだ、と言う。つまり、目の前にあるものが、たんに絵の具で汚れた画布ではなく、何かしらの意味を読みとり得る、何かしらの秩序によってつくられた制作物=作品である、という確信が直感的に与えられるからこそ、その作品を見るのであって、そこで与えられる「それが一つの意味のある全体である」という直感がイメージなのだという訳だ。だから、イメージが成立していなければ誰もそれを作品として見ないし、逆にイメージさえ成立していれば、中身は適当でも人はそこから何かしらの意味を読みとってしまう。(だから、事前に与えられたイメージと、それを読み込むことで生じた意味とは、必ずズレがある。)ここでは、イメージとフレームとは不可分なものだと言える。あるいは、モネの絵において、近づいて個別に見ると違う色なのに、離れて絵全体を見ている時は同じ色のように見える細部がある時、その色は、イメージとしては「同じ色」なのだとも言う。つまり、イメージとは客観的なものとしての図像の問題ではなく、それを見る者の「経験」の問題であるという訳だ。
●場がこなれたということもあるのだろうが、シンポジウムは終盤になってようやくセッションという感じになってきた。終盤に向かって、シンポジウムの纏めとしての暫定的な「結論」のようなものとして、作品とはカントの「アンチノミー」のようなもので、それは「世界にははじまりがある」と「世界にははじまりもおわりもない」というような互いに両立し得ない命題が共に説得力をもって成立してしまっているような状態としてあり、だからこそ、「芸術作品」はその両立し得ない状態を両立し得ないままに同時に成り立たせることが出来る空間(装置)として、(「亀裂」として存在するような)近代的「人間」という形態を要請するのだ、という結論に落ち着こうとする。ここで面白かったのは、話がそこに収斂しつつある時、岡崎氏から、では、ここにいる方々は皆、近代的な人間こそ素晴らしいのだ、ウォーホルみたいな機械的反復で「人間」が成り立たないのは駄目なのだという意見で一致している訳ですか、という発言があったことだ。これはぼくの勝手な推測だが、ここで岡崎氏が想起していたのはウォーホルなどではなく、実は現在のまったく「白痴」化した美術の状況のことだったのではないか。この場は、大学というアカデミックな場所で芸術学をやっているようなパネラーが集まっているので、カントだフーコーだ、プッサンだ抽象表現主義だ、などという話が当然のようになされるのだが、今では、美術関係者同士では(「美術界」という俗界においては)そんな話は全く成り立たず、セザンヌマティスだという話しでさえ全然通じなかったりするような状況にある。(岡崎氏はシンポジウムの間に何度も、他人の発言を受けて、今のは難しい話なので簡単に要約すると〜、という事を言っていた。他のパネラーに根本的に欠けていたのはこのような努力だと思う。)人間などとはほど遠い幼稚な動物たちばかりが闊歩する世界(これはこれで必然的なもので、必ずしも「悪い」とばかりは言えないが)のただなかで、俺はこういう作品をつくっているのだ、それに対して君たちはどのように考えているのだ、こういう場で俺の作品をサカナに話をするのも勿論重要だが、多少なりともそんな白痴的=動物的な状況に積極的に「介入」しようとは思わないのか、という言外の強いメッセージ(苛立ち)を感じた。(勿論、カントをオチに使うなんて、あまりにもありがちじゃないの、ということでもあるのだろうが。)