佐藤友哉『エナメルを塗った魂の比重』

●「よりぬき偽日記」(http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/yorinuki-i.html)に、『CAN YOU KEEP A SECRET ?(映画・読書・その他、19)』と『ON THE CORNER(映画・読書・その他、20)』を追加しました。今年の2月中頃から5月中頃くらいの日記を編集したものです。(移転前は、HPが容量ギリギリいっぱいだったので、日記以外の更新は出来ませんでしたが、移転して多少余裕が出来たので、今後、他のコンテンツも更新するかもしれません。)
佐藤友哉の『エナメルを塗った魂の比重』を読んだ。実は以前、『水没ピアノ』を途中まで読みかけたことがあるのだが、あまりに文章が稚拙で青臭く、耐えられなくなって途中でやめてしまった。『エナメル〜』の文章も同様にひどくて、頭の悪い高校生が書いたような文章を読みすすめてゆくのには相当な忍耐と寛容さが必要なのだが、それでも、読まなければいけない義務もないのに最後まで読んでしまったのは、そこに何かしらのリアリティが感じられたからだ。文章も話も幼稚である一方、不思議な語りのうまさや構築性もあって、その変なアンバランスさが魅力でもある。もしかしたら何かの間違いで凄い小説を書いてしまうことがあるかもしれない、という幻想を抱かせてくれたりする。(以下、相当にネタバレあり。)
●この物語には、相当に突飛な、と言うよりも幼稚な設定が溢れている。人の肉しか食べられなくなった女子高生が、食べた人物の記憶を読みとることが出来るとか、人の血を吸うと、その吸った血の人物とそっくりになる中年女性とか、「予言者」を生産しようとしたマッドサイエンティストがいて、その予言者予備軍が高校の同じクラスにあつめられている(この設定はエヴァンゲリオンを想起させる)とか、コスプレ仲間の女の子が実は同級生の男の子だったりとか、得体の知れない黒幕が全てを操っていたり、エリートの集団らしいナントカ研究所が陰謀に絡んでいたりとか、物語として安易だという以前の、まるで子供がつくった幼稚なお話みたいだ。いわゆるエンターテイメント系の物語が、全くの法螺話を、いかにして「ありそうだ」と読んでいる間だけでも錯覚させて話に入り込ませるかという技術によって出来ているとすれば、この作家にはそのような技術は皆無だと言って良い。かと言って、突飛な設定や人物の、その「突飛さ」自体が面白いというレベルにまで達しているかと言えば、そうでもない。だが、この幼稚で突飛な設定の数々は、ただでたらめにそこいらのアニメやサブカル系の参照元から切り貼りされているだけという訳ではないだろう。(こういう話を、データベース型世界観みたいに読んでも、当たり前すぎて面白くない。)佐藤友哉にはあるはっきりした「テーマ」のようなものがあり、これらの突飛な形象は皆、あるテーマに沿って構築されていると思う。そのテーマを、取りあえず「イメージ」と言ってみることが出来るだろう。
●急に話は変わるが、絵画を観るとき、そこに誰の顔が描かれているのかはそれ程重要ではないだろう。重要なのは「どのように」描かれているかであって、例えば、色彩がどうで、絵の具のマチエールがどうで、形態がどうで、それらがどのように構築され、どのような空間、どのような様式が見られ、そこからどのような感覚が生起するのか、等々が重要な訳だ。しかし、イメージを見ようとする時、そのようなことは重要ではなくなる。それが写真であろうと、似顔絵であろうと、アートっぽく処理された絵画であろうと、それがマリリン・モンローであり、ミック・ジャガーであり、毛沢東であることが理解出来るかどうかが重要なのだ。この時、個々の物質、あるいは個々の作品は、それ固有のものである必要はない。それらはただマリリン・モンローというイメージを媒介するものであるということだけに意味がある。だがその時決して、印画紙とその表面に塗られた感光剤や、カンバスとその上に塗られた絵の具という物質が、マリリン・モンローのイメージとぴったり重なる訳ではない。イメージが複製可能であり増殖可能であることと、それを媒介する物質が他でもない「その物質」として、現在ここにあるという事実とは別の事柄であるしかない。マリリン・モンローのイメージを見ることが出来ているのは、今、目の前にそのイメージが描かれた物質が存在し、それを見ているからなのだが、しかしその時に見られているのはイメージであって、決してその物質そのものは見られてはいないのだ。
●牛肉を食う人でも、例えば花子と名付けた牛を食うことは出来ない、と柄谷行人は書いた。固有名というのはまさにそれが固有のものであることを示すイメージのことだ。記号が概念と聴覚映像が結びついたものであるとしたら、「これは他ならぬ固有のものである」という概念が、あるイメージとしての音=名前と結びつくのが固有名ではないか。しかし記号はあくまで記号の体系のなかで意味をもつのであって、事物との一対一対応で意味をもつのではない。(つまり、記号の体系、象徴的な秩序が崩れてしまえば、固有性という概念、「これ」が「他ならぬもの」であるという概念も崩れてしまう。固有性とはつまり、体系によってこそ保証される。)だから「固有のものである」という意味は、固有の事物とは必ずしも結びつかない。「他ならぬこれ」とはあくまで「他ならぬ」という概念のことであって、「これ」そのものの側にある内在性とは別のものだ。
スピルバーグの『A.I』では、人間が全て死に絶え、まったく存在しなくなった未来のある時に、人間に関する記憶をもった一体のロボットを媒介として、そこに存在する機械たちの間に、人間の記憶、人間というイメージが発生し、共有される。もはや人間という事物が存在しない時空で、しかしその時点での「現在」に生々しく生起する人間というイメージ。そのイメージは、あれほど人間であろうとしてデビッドが、人間ではなくメカであったことによって媒介することができたものだ。そして、2000年後の未来において、もはや存在しない再生された母親のイメージと過ごす永遠とも思える「一日」。デビッドは、人間が全て死に絶えたことによって、どのような地点にも位置づけることの出来ない時空において、はじめてユニークな、唯一無二の固有な存在として、他でもない「この子」として、母親と接することが出来るのだった。しかしこの時、デビッドはもはや「デビッド」ではなく、誰でもなく、誰であってもよい誰かに過ぎないだろう。(固有名が成立しない地点においてこそ、デビッドの事物としての固有性、内在性が十全に生きられるのだろうか?)
●上手く指し示すことが出来たかはわからないが、佐藤友哉がその稚拙な小説(と呼べるのか?)で執拗に追求しているのは、上記のような意味での、イメージと固有な存在としての「事物」(内在性)そのものの重ならなさ、というか、繋がらなさ、のような事ではないのだろうか。人肉を食らう少女が出てきても、それはカニバリズムとは関係ないし、予言者が出てきても、それはオカルトとは関係がなく、それらはただイメージが常に事物とずれているということを示す形象として登場するのだ。だが誰も(何も)、イメージを通してしか事物として存在することが出来ない。ある秩序だった時空に納まることの出来ないイメージが勝手に、それ自身として、まるでそれが存在の掟であるかのように動いているような世界。この小説の登場人物たちが皆、異常なまでに「上下関係」に拘っているのは、イメージをつなぎ止めておくものが、もはや「上下関係」以外に見あたらないからだろうか、それとも、絶対的とも言える暴力による上下関係だけが、イメージとは違う、リアルな「事物」として世界の基底にあるからなのだろうか。(この小説における「いじめ」の描写は確かに稚拙だが、しかしそこに漲っている暴力の感触には、そこだけ凄く嫌なリアリティがある。)