昨日につづいて、吉田秀和『セザンヌは何を描いたのか』

(昨日につづいて、吉田秀和の『セザンヌは何を描いたのか』について)
●この本はとても平明でありながらも突っ込んだ分析がなされていて素晴らしいのだが、ぼくなんかからみるとやや記述の言葉が文学的に過ぎるように感じられるところが気にならなくはない。例えば、この本には何度もセザンヌの絵が「精神的」なものまで表現しているとか、「精神的」な重みがある、とか書いてあるのだが、ではその「精神的」というのは一体どういうことなのかについてはそれ以上は追求されない。まるで「精神的」であるということはそれ以上の分析を許さない最終的な価値であるかのように、吉田氏の筆は「精神的」に行き着くと止まってしまう感じがある。セザンヌの「空間」の構成については、どのような「空間」なのかというところまで、あるいは色彩や技法などについても、執拗に、かつ鋭い分析で追いつめて行くのに、まるで「精神的」というのが行き止まりの合図であるかのようになってしまっているように思う。確かにセザンヌの絵からは「精神的」と言うしかないようなものが感じられはする。しかし、では何がそのように感じさせるのか、そこで感じる「精神」とはどんなものなのかということが、空間や色彩に関する分析と結びつけて展開されることがないというところが不満ではある。例えばこの本では2度ほど、セザンヌルノアールが比較され、そこではルノアールは感覚的、官能的であるのに対してセザンヌは存在的、精神的だと言われるわけだが、しかしそれは結局ルノアールよりセザンヌの方が、面白い、深い、謎めいている、と言っているだけでそれ以上ではない。
もう一つの不満としては、吉田氏がセザンヌの「求心性」をあまりに強調し過ぎていることだ。例えば同時期に描かれたと思われる3枚の静物画を比較して、雑然と並んでいる物たちを中心に向かって凝縮させてゆくような強い力が、いかにして整理され整然とした秩序を形づくってゆくのかを示し、それによって、制作されたであろう順番を予測するのだが、ぼくもこの制作順についてはその通りだと思うものの、それは求心的な力が次第に整理されゆるぎないものになってゆくのではなくて、はじめはバラバラになってしまう物たちを求心的な力で強引にまとめていたのが、次第に、中心にむかって凝縮してゆく力と、個々の物たちが独立し分離してゆく力とが同等に拮抗するようになり、その相反する力の拮抗が一見静謐な古典的な秩序とも見えるような外観を生んでゆく、ということのだと思う。(ちなみにその3枚の静物画とは『生姜の壺と茄子のある静物』『オリーブの壺のある静物』『ペパーミントの壺とむ青い布のある静物』)確かにセザンヌの絵には、中心に向かって凝縮するような力、あるいは視線を奥へと強く誘い込むような力が働いているように見える。(これはセザンヌが自然は「深さ」だと言っているのと対応するだろう。)しかしそれと同時に、視線を粉々にして散らす力や、奥にゆこうとする視線の前に立ちはだかって跳ね返すような強い力も働いているのだ。(つまりこれは、自然の「深さ」が「絵画」いう「平面」の上に実現されなければならないことに対応しているだろう。)この二つの力はどちらか一方だけを強調することは出来ないものであると思える。(極端に単純化した例を挙げる。セザンヌはしばしば森の奥へと伸びて行く「曲がり道」を描くのだが、その画面において、道が奥へと進み、さらに先が曲がって見えないことから、視線は強くその奥を感じ、想起し、奥へと誘われるのだが、同時に、道が曲がって途切れている先は木立ちによって阻まれていて、しかも曲がっている道はパースペクティブを暗示するものとしては充分に機能しないので、見方によっては道というより山のようにせり上がって見えることもあり、つまり視線はそれ以上の奥へは行けずに跳ね返されて表面を漂う。)セザンヌの絵を見ている視線は、奥へ行くでもなく跳ね返されるでもない状態に、あるいは奥へ行こうとする視線と表面に留まろうとする視線が分裂したまま共存するしかないという、奇妙な状態を強いられる。もし、セザンヌの絵から「精神的」と言うしかないような何かが感じられるとしたら、そのようなどっちつかずの状態によって発生する「読み解き難さ」あるいは「読み切れなさ」が、まるで他者の精神のもつ「読み切れない厚み」と対面している時と同等の感覚を観者に与えるからだとは言えないだろうか。
●しかし、セザンヌの絵画の最も大きな力は、「まるで精神のような読み解き難さ」とはまた別のところにあるようにぼくには思える。そして、それは吉田氏も同じように考えているとぼくには読みとれる。吉田氏はセザンヌの晩年の一連の風景画を何枚か分析した後、サント・ヴィクトワール山の連作のなかで特にバーゼル美術館にあるものを挙げるのだ。ぼくはこの作品の実物を観たことはないのだが、図版で観るだけでそれが圧倒的なのであることが充分に感じられる。この絵からは「精神的」だとか「読み解き難さ」だとかいう言葉など全く役に立たないような力が感じられる。もしかしたら「空間の構築」だとか「感覚の実現」とかいう事柄すらも破綻しているかもしれない。吉田氏はこの絵について「未開の密度でもって塗られている空の白味を帯びた青は、山にも反映していくらみてもあきない魅力をもつ」と書いているのだが、ぼくは「魅力」と言うよりむしろ「耐え難さ」のようにものを感じる。この絵を観ていると、まるで強力な感覚によってボコボコに殴打されているような感覚がある。それは歓びと苦痛が区別出来ないような感覚なのだ。それはめくるめくような充実し切った、空虚の入り込む隙間のない感覚の溢れ返った状態なのだ。(だからそれは「読み解き難さ」「読み切れなさ」ではなく「受け取り切れない」で溢れ出す感じなのだ。)セザンヌは、ある空虚さを示すことによって、その空っぽの内部に神秘を充填させようとするようなタイプの作品とは全く関係がない。(「うつろ」な場所に外から「魂」が宿るというような、東洋的=日本的自然感とは対極にある。あるいは、トニー・スミスの「深夜のハイウェイ」とも対極にある。)そこにはひたすらな感覚の過剰があり、それがセザンヌの全作品を基本的に貫いている。そのことを吉田氏も明確に感じているからこそ、晩年のセザンヌ作品における、そのまま残されたカンヴァスの地の白い部分をけっして「塗り残し」というようには扱わない。それは東洋的な余白や間合いといったものとは全然違うものだ。そこには充実した白という色彩が、そしてカンヴァスという物質が、つまり溢れるほどの多様な感覚が、みっしりと高い密度で詰まっているのだ。セザンヌを観るということは、歓びというよりも、あまりに強力に吹き荒れる感覚の強度に必死で耐えるという感じなのだ。