03/11/28

吉田修一東京湾景』。これって『パーク・ライフ』と似ているのじゃないかと思って、『パーク・ライフ』もさらっと読み返した。どちらも男と女が不思議な状況で出会い、それによって不思議な距離感を持った関係が生じる。そのとき、男にはずっと引きずっている過去の女の影がある。そして、『東京湾景』ではモノレールの車窓から二人で男の住むアパートを見つけるのだし、『パーク・ライフ』では銀座のギャラリーの写真展で女の生まれた病院と実家を、こちらも二人して見つけることになる。そしてこの行為が二人の関係に決定的な「何か」を生じさせる。(『東京湾景』ではこれは発端のエピソードだが、『パーク・ライフ』では終幕に使われる。)そしてこの時、どちらの小説でも景色を眺める女の首や顎のあたりに、男が今まで知らなかったホクロを発見するところまで律儀に同じなのだ。つけ加えるならば、『パーク・ライフ』では、男が夜の日比谷公園で、空に舞い上がる小さな「赤い気球」からの俯瞰の視線を「想像する」ことで、いままでバラバラだった断片(空間の断片、エピソードの断片、身体の断片)を統合するのだし(つまり、地上から空=俯瞰できる位置までの距離が「想像」によって踏破される)、『東京湾景』でも、お台場と品川埠頭の間に横たわる距離としての海を男が泳いで渡ってくるのを、女が「想像する」ことによって二人の(心理的)距離が踏破される(ここでも、海=二人の関係における心理的な距離は「想像」によって踏破される)。こうしてみると、『東京湾景』は『パーク・ライフ』の意図的な反復または変奏だとみてよいだろう。だが異なっているのは、『パーク・ライフ』は「文芸誌」に載るような小説(つまり芥川賞を意識したような小説)として書かれているのに対し、『東京湾景』はあからさまに「通俗的な恋愛小説」と割り切って構築されているという点だろう。つまり、『パーク・ライフ』の二人の関係が「何かが常に始まろうとしているが、まだ何も始まっていない」(村上龍)という段階に留まるのは「純文学」だからであり、『東京湾景』で二人の関係が(まるで恋愛小説のように)発展するのは「通俗小説」だからというわけだ。実際、『東京湾景』の二人の人物設定や関係(恋愛)はまるでテレビドラマみたいなものであり、そのようなものとして読む限りにおいて、きわめて良く出来ていると言えるだろう。(テレビドラマの脚本家を目指している人が読めば、本当に多くのことを学べるのではないか。)

●だが、一方が「純文学」でもう一方が「通俗小説」だと言っても、異なっているのは、あくまで人物の設定や小道具の使い方、物語の進展のさせ方であって、文章それ自体ではない。何が言いたいのかというと、読み返して改めて思ったのだが、『パーク・ライフ』の文章だって決して質の高いものだとは言えないと思う、ということだ。例えば、次に引用する文章など、一体「相田みつを」とどこが違うというのかぼくには分からない。

《ひかるの話し方は、ちょうど雪道を歩いているような感じがする。一つ一つの言葉に力があって、決して早足になったり駆け出したりしない。ときどきズルズルッと滑ることはあるが、尻もちをつき雪を払いながら立ち上がるときの笑顔は、その場の雰囲気をとてもあたたかいものにする。》

これは主人公の男が高校時代の同級生であり、ふられたことをずっと引きずっている女でもある「ひかる」と電話で話している時(しかも舞台は夏か少なくとも「寒く」はない時期だし、電話相手のひかるは風呂上がりですらある)に出てくる表現で、前後の細部とは関係なくいきなり出てくる「ひかるの話」を示す比喩である。好意的に解釈するとすれば、「雪道」というのは電話をかけた男の心理状態の比喩でもあり、それがひかるの言葉によって「あたたかくなった」と読むこともできるかもしれない。だがぼくは、小説を読んでいてこのような「相田みつを」程度に「文学している」表現を読むと、一気に脱力して冷めてしまう。(しかもそれが決して「素朴な」作家とは言えない、ある意味超絶技巧のテクニシャンとも言える吉田氏の小説であれば尚更だ。)あるいは、今度は『東京湾景』なのだが、次の二つの文章など、いくら通俗小説だからと言っても、これでは「昼メロ」程度か「官能小説」の文章みたいではないだろうか。

《ただ、男運の悪い女を自分が今抱いているのだと思うと、妙に興奮させられることがあって、自分でも不思議なくらい亮介は真理とのセックスに熱中してしまう。愛がない分、言葉を交わさなくていい分、自分の汗や唾や精液が熱を帯びてくるような感じもする。真理を抱いていると、ときどき目に浮かんでくる光景がある。まったく海水のなくなった東京湾の光景だ。日を浴びた海底は、まるで廃墟のように、どこまでも続いている。》(こういう「心象風景」の挿入はあまりに安易ではないだろうか。しかも、干涸らびた海底が「まるで廃墟のよう」だと形容されるのも、あまりに安易に思える。)

《佳乃は、「愛に溺れている」などと言って茶化すが、それはどこか違うと美緒は思う。こうやって素っ裸でカップヌードルを啜っている亮介を愛しているから、自分がこんなにも彼の前で大胆になれるわけではなくて、亮介のことをそれほど愛していないからこそ、彼の腕の中でこんなにも自由にからだを解放できるのだ。》(こういうのってエロ小説程度の薄っぺらな「心理描写」じゃないのだろうか。)

今、引用した文章を打ち込んでいて思い出したのだが、『東京湾景』では「からだ」という言葉がものすごく薄っぺらに使用されている。ここでは「からだ」はほとんど「素朴な(言葉で言えない)実感」を言い換えただけの言葉で、たんに「理屈」の反対語のような軽薄さ(厚みのなさ)で使われているのだ。例えば、美緒=涼子が仕事で関わった会社のイメージポスターが認められ、次の人事では昇格が確実視されているという説明に続く文、《特に出世欲が強いわけではないが、仕事を認められると理屈ではなく、からだが素直によろこんでしまう。》という時の「からだ」の使い方は変ではないだろうか。たんに「理屈ではなく、素直によろこんでしまう」で良いのではないだろうか。

●もし『東京湾景』を、(まさに「東京湾景」として)登場人物には対してほとんど興味を持たずに読むとしたら、かなり面白い小説だと言えると思う。登場人物たちはたんに、品川埠頭周辺やお台場周辺という空間、あるいはその二つの場所の距離や位置関係、その二つの場所を結び移動を可能にする様々な交通機関の有り様、等を書くための「移動する二つの視点」のようなものに過ぎないと割り切ってしまえば、ロケーションやフレームの切り取り方など見事なもので、この小説は東京湾岸の空間を捉え、構成し、描写したものとして極めて成功していると言える。なにしろこの「通俗的な恋愛小説」に出てくる二人の主役の「心理的な距離」は、東京湾を挟んで向かい合う品川埠頭とお台場という位置関係や、その二つの場所を繋ぐ交通手段によってきっちりと規定されているのだから。二人は、羽田から浜松町まで走るモノレールのなかで(実質的には)出会うのだし、互いの場所が見渡せるくらいの近い距離で向かい合いながらも、相手のいる場所までは「ゆりかもめ」で東京湾を半周するという遠回りをしなくてはならず、その道行きを反映するように二人の関係にはつかず離れずの微妙な距離がつづき、それが海底トンネルを通る「りんかい線」の開通で一気に距離が縮まり、しかしその距離のあまりに急激な縮まりによって関係が行き違いそうになるのだが、そこを、東京湾を「泳いで渡る」という(想像として直接的である)距離の踏破の方法によって、男は過去の女の記憶を立ちきり、女は自分の臆病さを断ち切って、その距離を限りなくゼロにすることが出来た、というわけなのだから。(ただ、最後の「泳いで渡る」という想像によって二人の距離が縮められる、という結末の付け方は、ふまりに「文学的」でぼくは納得出来ないけど。)

●この小説の前半は、主に男性の主人公の視点によって語られるのだが、後半は、いつの間にか女性の主人公の視点が主となり、女性の視点によって締めくくられる。このことは何を意味しているのだろうか。たんに(構図-逆構図の切り返しとして)、品川埠頭からの視点ではじまり、お台場からの視点で閉じられるということなのだろうか。ただ、この小説はどうも女性読者を意識して書かれているフシがあって、その証拠に、男性の主人公はやや理想化されたような(異性から見て)魅力的な感じに描かれている(聖痕のような傷があったりもするし)のに対して、女性の主人公は、これといった目立った特徴を与えられてはおらず、職業を持って自立した女性であれば割合誰にでも当てはまるようなイメージとして描かれていて、つまり誰でもが感情移入しやすいように配慮された人物で、これは「女性読者ウケ」を狙っているのじゃないかと勘ぐってしまったりもする。だからこそ最後は、女性の視点によって統合される必要があったのではないだろうか、とか。