03/12/12

青山真治が日記で「あるサイト」と書いているのが「このサイト」であると考えるのは、もしかしたらたんなる自意識過剰か関係妄想に過ぎないのかもしれないが、とりあえずそうであると仮定して書いてみる。ぼくが12/09に書いたのは、『ヴァンダの部屋』の「美的」なシーンが内容とそぐわないというような単純なことではない。どんな「内容」のものであろうと、映画としてつくられるならば、それが「映画である」ということから逃れられないのは当然で、ただ滅茶苦茶(やんちゃ)をやればジャンルの歴史性から逃れられるなどと考えるほど単純ではないつもりだ。ペドロ・コスタが「アメリカ映画の伝統」をふまえているということは、『ヴァンダの部屋』の画面を見れば分かることだし、たとえ「アメリカ映画の伝統」とは全く別のことをやろうとしたとしても、そこには「別の形式」が必要であるということも当然のことだ。その「内容」がどんなものであろうと、「撮影対象」が何であろうと、作品をつくろうとすれば、それとはまた別の問題として「作品そのものの形式や歴史」という問題があることは当たり前の話で、ペドロ・コスタが一方で撮影対象を尊重しているのと同様に(同時に)、もう一方で「アメリカ映画の伝統」を尊重しているであろうことそれ自体を非難するつもりなど全くない。(と言うか、だからこそ面白い。ぼくはちゃんと、ペドロ・コスタはズレを意識しているはずだし、ジャ・ジャンクーのような「幸福な一致」も信じていないはずだ、と書いている。)どんな「内容」のものであろうと、それが「映画」であるならば、まず「映画としてどうか」ということが問われるというのは当然のことだろう。(映画にとってフレーミングが必須アイテムであるなんていうことは、わざわざ映画作家に言われなくても分かっているし、フレーミングが必須アイテムではない「作品」なんてあり得ない。)問題はその先にあって、ではそのような「映画」が映画という括弧を外してもなお「何を実現しているのか」「どういうものになっているのか」ということであって、たんに内容と形式(あるいはジャンル)のズレという話ではないし、作品の外にある「真の現実」と作品の関係なんていうものでもない。ある妄想が、それ自体としては妄想に過ぎないかもしれないが、妄想が生じるしかない現実的な条件(必然性)というものが、その妄想によって初めて明らかになる(見えるようになる)ということがあり、そのような意味で尊重されるべきでありリアルなものであり得るように、ある作品が、その作品の成立によって初めて目に見えるようにすることの出来た現実的なもの(の感触)というものがあって、『ヴァンダの部屋』には、そのようにして見えるようになった「感触」が確かにあるように思われるのだが、その「感触」と、「作品の一部分」との間(関係)に齟齬が感じられる、あるいはぼくが掴みきれないところがあった、ということを書いたのだ。なんと言うのか、一方に「映画じゃないとダメ」というのがあるのと同時に、もう一方に「映画なんてホントはどうでもいい」というのが常にあるのが普通であって(どちらか一方に全てを回収することは出来ない)、ぼくにはペドロ・コスタ(の映画)にはその両方が同時にあるように思えるからこそ、過剰に「美的」であるように見えてしまったところが気になったということなのだ。

●12/09の日記にもそのように書いているはずと思うのだが、『ヴァンダの部屋』の蝋燭のシーンについては、それが本当に「美的」なものでしかないのかどうかの判断は、もう一度観てみるまで保留したいのだが、青山氏の『秋声旅日記』の、とよた真帆を斜め後ろから捉えるショットが「美的」で弱いものであることは間違いがないと思う。それが「何もない」ことをフレーミングすることについての試行、あるいは実践であるようには、ぼくには全く見えない。それは、『軒下のならずものみたいに』で、斎藤陽一郎がカレーを食べるシーンの前に、恋人のイメージをオーバーラップで重ねてしまうような弱さと繋がっているようにぼくには思える。(このイメージが挿入されることで、カレーを食べる行為が、恋人への思い=心理を表現することに還元されてしまいがちな感じになる。)ぼくにはこれらのショットは(「映画」への?)「言い訳」のように見える。『秋声旅日記』も『軒下のならずものみたいに』も、とても好きな映画ではあるのだけど、こういう「弱さ」を青山映画の魅力だと思ってはいけないと、ぼくは思う。