04/12/20

●『そこでゆっくりと死んでいきたい気持ちをそそる場所』(松浦寿輝)に収録された短編で一番よかったのは『あやとり』なのかなあと思った。これはまさしく「物語ること」の原初的な欲望に触れてくるような作品ではないだろうか。(宮沢賢治『やまなし』のカバーバージョンらしい。)一見、ここでは残酷な偶然の絶対性や、そのような偶然に晒されて生きるしかないことの恐怖や不安が語られているようにみえる。(雨が降るように人が死ぬ、というような。)しかし、実はその「残酷」さに晒されているしかない現実的な「恐怖」を、「物語る」ことによって「甘美な恐怖」に書き換える、ということがここでは行われているのだと思う。厳しい現実のなかで、無力なまま死の危険に晒されている二匹の子猫に強いられた不安や恐怖の物語を、胸の奥がきりきりするようなちょっと冷静ではいられない思いと共に読む読者は、しかし何故か、子猫たちの抱く恐怖や不安に半ば以上同調し、しかもそのあっけなくも残酷なラストに少なからぬ衝撃を受けながらも、同時にその一連の事柄の連鎖を「読む」ことで自らが慰撫されるのを感じてしまう。物語によって残酷や恐怖を反芻し、物語上の人物(猫)の死への不安や死の訪れと半ば同化することで、たんなる偶発的な出来事として訪れる現実的な「死」(絶対的な私の終わり)や、今ここにおいても誰でもがそのような「死」を迎える可能性があるという事実をひと時忘れることが出来るのだ。死そのものではなく「死への不安」を、まるで愛玩物のように手なずけ、それに寄り添って身震いしつつも実はうっとりとすることで、人はひと時死から目を背けて、(不安のなかで)やすらうことが出来る。毒をもって毒を制するように、「死への不安」をもって「死」そのものにベールをかける。『あやとり』は、そのような物語(お話)の「毒」のような機能に触れていると思う。
●あと、自らの詩作品を引用した小説、特に『逢引』はちょっとどうかと思う。これは一見、自分が若い頃に書いた詩を否定すると言うか、殺そうとしてさえしているかのように書かれているとも思えるのだが、しかしそれは、屈折している分だけストレートなものよりもさらに始末の悪いナルシズムだと言うべきではないか。松浦氏がナルシズム的傾向の強い作家であることはその読者なら誰でも感じるだろうし、そこが大きな魅力でもあるのだと思うが、しかしこれはさすがにやりすぎではないだろうか。松浦氏は「あとがき」で、《わたしは何人もいる》と書き付けているのだが、少なくとも『同居』や『逢引』を読むかぎり、松浦氏は「一人」しかいなくて、大勢いるように見えるとしてもたんに鏡の内側に閉じた像に過ぎないように思える。例えば『逢引』のMとTとは、他人ではなく反転的な双生児でしかないし、電話をかけてくる女だって、似たようなものだろう。(松浦氏の『同居』や『逢引』という詩の愛読者であり、何度も何度もに読み返してきた者としては、ごく素朴に、そりゃないよ、と思ってしまう。)