04/12/26

斉藤環『文学の徴候』。これは面白く、かつ難解な本だと思う。いや、書かれてていることを文字通り理解するだけなら、特に難しいことが書かれているわけではなく、むしろ気軽に読み進むことが出来る。特に前半の、イマドキの流行の作家を扱っている部分は、割合気楽にさらさらと読みすすみながら、成る程と関心させられる部分が多い。例えば、滝本竜彦佐藤友哉の小説では「論理階梯」が無効化しているため、作品世界とその楽屋裏のギャップが生じず、超越的な視線が成立せず全てがベタにフラット化されているところに強みがあるというのはその通りだろうと思うし、赤坂真理を引きつつ、ポストモダン的な主体の解体(主体の複数性)とは異なる、リアルな「解離」の存在の重要性を解くのも納得出来る(ぼくは赤坂真理を読んだことはないのだが、大道珠貴の小説などから「解離」のリアルな感触の重要性は感じられる)し、舞城王太郎の「せき立てる」ような文章のリズム(ぼくはこれをどうしても受け入れ難いのだが)と、ラカンが短時間セッションなどで用いる時間の切断(時間の有限性)を結びつけるところなど、目から鱗という感じだし、中原昌也について《絶対的な享楽においては、主体はみずから消失を望む。これが強度的な体験だ。しかし中原の戦略はこれを反転させる。中原の無意味な記述は、無意味さの現実性を介して、われわれの主体が否応なしに存在させられてしまうという恐怖を呼び覚ます。》と書かれる部分などは、中原氏の小説について書かれたものではじめて説得力のあるものに出会った(はじめて中原氏の小説をちゃんと読んでみようかという気にさせられた)という感じだ。
しかしこのような前半の軽やかで明快な記述は、中盤の保坂和志川上弘美小川洋子などを扱ったやや低調な章で停滞した後、後半の、(前半の作家よりは)割合キャリアのある作家や批評家を扱う部分に移ってからは、異なった表情をみせはじめる。例えば、鎌田哲哉の批評原理としての「怒り」についての分析や、笙野頼子の「ルサンチマン」の複雑な組成について書かれる時、その文章は前半の軽やかな明快さとは異なる、言い淀むような重たい調子や、論旨が展開し切れていないような、切れ味の鈍さを感じさせる。このことは逆に、斉藤氏の切実な関心は「本当は(?)」この辺りにあって、今まではその領域を書くことを避けていたのだが、(追いつめられるような連載ということもあって「防衛」が外れて)ついついその領域に踏み込んでしまったのではないかということを感じさせるのだ。この感じは、大塚英志大西巨人大江健三郎について書かれた章でも響いていて、これらの章では、ただ文字通り書かれていることを読み取るだけでは充分ではない、それ以上のことが書かれており、それ以上のことを読み取ることが要求されているように感じられるのだ。この辺りに、この本の難解さがある。特に難解(というか不可解)なのが石原慎太郎について書かれた章で、連載時にはなかった新たな部分としてわざわざ付け加えられているこの文章を読むと、どうやら斉藤氏が(半ば)本気で石原氏の小説に魅了されているらしいということは分かるのだが、文章そのものや論の展開などは全く説得力を欠いていて、何故斉藤氏が石原氏の小説をそんなにも持ち上げるのかはこの文章(だけ)からは理解できない。(あとがきで触れられている、文芸誌を汚染している「私小説的人格」の統制とは無縁に書かれた小説の一つのサンプルだという意味は分かるし、全体の構成からみれば川上弘美について書かれた部分と対応しているのかもしれないことも推測出来るのだが、それにしても文章自体があまりに弱く説得力を欠いている。)このことから何を読み取るべきなのだろうか。
●この本のなかで、独立した文章として最も充実しているのは古井由吉について書かれたものだろう。あえて、傑作であることは間違いないが、うんざりする程様々な場所で取り上げられている『杳子』を主に引用しつつ書かれるこの章には、斉藤氏の思考が凝縮されているように思う。斉藤氏は、主体を作動させる形式をOS(器質的主体)とPS(精神分析的主体)という二重のものの重なりとしてみる。OSは、脳や器官、神経系などによって作動する主体であり、動物的で匿名的な主体である。PSはファルスやシニフィアンによって作動する主体であり、人間的な固有性をもった主体である。この二つは重なり合ってはいるが、それぞれに独立している閉じたシステムであり、互いを知ることは決してできない。ただ「文字」を介してのみ交通する。《ある刺激をOSはコンテクストとして学習し、同じ刺激をPSはシニフィアンとして反復する。OSが学習によって獲得した「コンテクスト」は、「文字」を介してPSにシニフィアンとしてもたらされ、PSの作動が反復するシニフィアンはOSに「文字」として送り返され、コンテクストとしての効果をもたらす。》ここでコンテクストとは相貌性のことであり、「顔」や「癖」の同一性としてOS(動物的主体)によって認知され学習されるもののことだ。(「学習」とは、ある人の「顔」を憶え、次に会った時もその人だと分かるというようなこと。OSが文字を「顔」として学習し、それをPSがシニフィアンとして作動させる。)斉藤氏は、この、OSにおいて働く相貌的同一性の認知が、PS(シニフィアン)の作動を可能にするA=Aという自同律を成立させるほとんど唯一の基底的源泉だとする。斉藤氏は、精神医学における、器質因、心因、内因という病気の三つの分類を挙げる。器質因の病理は、脳や中枢神経に関わるものであり、匿名的主体としてのOSの問題であり、心因の病理は、ストレスやトラウマなどに関わり、固有的主体としてのPSの問題であるのだが、内因の病理はそのどちらにも属さず、いわばこの二つの異なるシステムの重なりの問題であり、二つのシステムに同時に関わるものだとする。そして、古井氏の小説(ここでは『杳子』)は、まさに内因性の文学として、OSとPSとの両方にまたがり、その二重性そのものを問題とし、それを正確に記述している点で、他に類をみない独自性と、広く深い射程をもつとする。
ところで、斉藤氏は、OS(器質的主体=匿名主体)とPS(精神分析的主体=固有主体)との違いを説明するために、次のように書く。
《わかりやすく言えば、「人間の死」をラカニアンは、人間の固有性の極みにおいて解釈し、ドゥルージアンは匿名性の極み(「雨が降るように人は死ぬ」)において理解するだろう。いずれが真理という話ではない。強いて言うなら「趣味の問題」なのである。》
ここで言われる「趣味」という言葉の重さを、しっかりと受け止めたい。
●この本は、『文脈病』などと会わせて、まだ何度か読み返す必要があり、またその価値もあるように思われる。