ジャック・リヴェット『Mの物語』

ジャック・リヴェット『Mの物語』をDVDで。これは、まさにリヴェットの映画というべきもので、この映画を劇場で見逃したことを悔やむ。ただ、この映画の素晴らしいラストが、(それ自体としては素晴らしいとは思うのだが)そのラストに至るまでのリヴェット的な冗長さとは折り合いが悪いのではないか、という疑問もあるのだが。つまり、こんなにお話として「きれい」にまとまってしまうと、(それこそが重要であるはずの)リヴェット的な冗長性が、たんに冗長なものにみえてしまうのではないだろうか。
●リヴェットの映画の登場人物には過去がない。映画がはじまると同時に、いきなりそこに無からあらわれたかのように存在するのだ。確かに彼らも記憶らしきものを持つが、それはゲーム盤の上で与えられた設定、台本上で与えられた役柄のようなもので、厚みも深みももたない。(『Mの物語』でジュリアンの住んでいる家は人が住んでいるとは思えない廃墟のような屋敷だし、マリーはそこで「前の女」の痕跡を探したりするのだが、ジュリアンは映画のファーストショットとともに生まれたのだから、台詞以外にそんな過去があるはずもない。)なけなしの薄っぺらな設定だけを与えられた人物が、(現実のバリのようでありながら決してそうではない)右も左も分からないどこでもない場所にいきなり放り出されたところからゲームははじまる。そのゲームにはルールらしきものが存在するようなのだが、その明確なルールを登場人物は知らない。とにかく、目の前で展開されていることがらだけが唯一のヒントであり、しるしであって、そこで得られるわずかな手がかりをもとに、人物は手探りで動き始める。いや、この言い方はあまり正確ではないだろう。人物は半ば手探りで、そして半ば自然(自動的)に、つまり、ある暗黙のルールに知らないうちに従わされて、機械的に、行動するのだ。これはあくまでリヴェット的世界を例えるための比喩であって、実際のリヴェットの撮影方法のことではないのだが、物語の全体像も、その始まりも終わりも知らされていない状態で呼び寄せられた俳優が、その日に撮影する分の台本だけを渡されて、それをもとにその場で演技をする。そしてまた次の日は、前の日に撮影したシーンとどのような関係にあるのか全く分からない別のシーンの台本を渡され、演技する。(そしてその撮影がいつまでつづくのかも知らされていない。)俳優は、何を基準に自らの演技を組み立ててよいのかの手がかりを全く与えられないまま、手探りで、しかしだからこそ台本に従って、台本だけをたよりに演技するしかない。台本は明確に描かれていて、そのシーン自体に曖昧なところはないのだが、そのシーンのフレームの外側が、どこに、どのように繋がっているのかは全く不透明な状態で演技することが、俳優には強いられる。リヴェットの世界とはそのようなものであって、今スクリーン上に見えていること、そこから聞こえている事には何の謎もないのだが、その外側の一切が謎で、つまり世界を俯瞰的に見下ろすことが出来ない。そこで起こっている事が、どのようなルールに基づき、どのような因果関係によって成立しているかがよく分からないまま、その場面の具体性だけははっきりしていて、そこで何をするべきかも何故か「分かっている」のだ。だからリヴェットの人物には内面はなく、そこに恋愛やセックスが描かれていても、そこには熱さも官能もなく、悩んでいても悩みはなく、その型をなぞるだけであり、ただ世界を見渡せない不透明感、「ここ」は明確であっても、「ここ」と「そこ」の関係を掴むことが出来ないという不透明感のなかから、あるかなしかの僅かな感情が染み出してくるだけなのだ。(このような意味で、リヴェットはデビッド・リンチに案外近いのではないだろうか。)リヴェットの映画においては地図さえも俯瞰図としては機能せず、そこにはただ様々な「しるし」が並列されているだけであり、タロットカードとかわらない。しるしはたんにしるしであり、しるしが意味となるには、複数のしるしが関係づけられ、秩序づけ(階層づけ)られなくてはならないのだが、その関係が確定されないままで放り出されているのだ。(と言うか、それらを関係づける根拠が与えられていない。)関係が確定されていないからこそ、それぞれの「しるし」は最大限の繊細さで聞き取られなければならないのだが、同時に、紋切り型へと性急に結びついてしまう傾向をももつ。関係が確定されない状態のままで、いくつものしるしがひしめき合ってざわめいているのが、リヴェットの映画であり、その演劇(演技する身体)性、遊戯性、冗長性は、それと深くかかわり、関係が確定されないままの「具体性」がそれらによって保たれ、それが映画の持続を支え、その緊張を保つのだ。リヴェットの映画を観るということは、そのような世界に巻き込まれることであり、リヴェットの映画に魅了されるとは、そのような世界の感触にリアリティを感じるということだろう。