●ふと思い出したのだけど、今年の元旦の昼間、帰省した実家でぼんやりとテレビを観ていて、番組はNHKの正月恒例の演芸番組(お笑いとかバラエティーとかではなく「演芸」)で、普段テレビではほとんどお目にかかれないような、この道何十年で、しかもほとんど同じような芸風やネタをずっと長い事くり返しているようなベテラン(高齢)の芸人さんや、この人たちは本当に「若手」なのだろうかというような古いスタイルの若手ばかりが次から次へと映し出されていた。ベテランの芸人さんは、ネタ的には一応流行りものをおさえていて、「ヨンさま」だとか「マツケンサンバ」だとかが登場する(こういう流行りもののチョイスの仕方自体が古くさいのだけど)のだが、パターンは恐らく何十年のくり返してきたものにその時々の流行りものを適宜代入しさえすればよいというようなもので、何も考えなくても自然と身体が動き口から言葉が自動的に出てくるような芸で、こなれ過ぎていてほとんどぞんざいさと紙一重の抽象性のようなものにまで達していて、新鮮さは全くないもののさすがに味わい深いものがあり、このように崩れてすり切れる寸前までこなれる芸の反復を支えているような「安定性」というものが今日では貴重なものになったのだなあ、とか思いながら観ていた。しかし、それなりに味わい深いものの新鮮さや驚きなど全くないだろうと油断していた時、ふいに、はっ、とさせられたのが、青空球児・好児の芸だった。黄緑色のジャケットで登場したので、どうせいつも通りの「ゲロゲーロ」をやるのだろうと思っていたら違うネタで、まあ、ネタはどうでもいいのだが、どうでもいいようなボケを好児に突っ込まれた球児が、背中をまるめ手を前にだらんと垂らした思いっきり脱力したような姿勢のままで、ふてくされたようにするするっと舞台の隅の方まで歩いて行ってしまったのだ。舞台の横に広い空間を使って、二人の演者が距離をひろげたり縮めたりしてダイナミックな動きをつくるというのは、コント55号などもやっていて別に珍しくもないのだが、この時は、えっ、というような不思議な「何気なさ」で、すーっと動いて行ってしまったのだった。好児の方は、舞台の中心にどっかりと居つづけて、何事もなかったようにネタを進行し、それに対し球児は、ほとんど部外者のようにルーズに舞台の隅の方をうろうろと徘徊し、たまにどうでもいいような茶々を入れるだけで、ここでは舞台の横に広い空間や、二人の距離の伸縮をネタに利用しようという気配などはまるでなくて、舞台の中心と隅の方とに分かれたままで淡々とネタが進行し、好児は中央ででいかにも「漫才」といったオーソドックスな進行をしているのだが、球児はその間、舞台上の演者という感じではなく、ただ偶然そこに居あわせた人みたいにぼさっと突っ立っていたり、うろうろしているだけで、それが本当に力の抜けた「素」の感じで、またそれを、NHKのカメラは二人を同時にフレームに納めるような引いたポジションを(基本的には)ずっとキープしたまま捉えつづけていたのだった。この時、何ともシュールな、今まで観た事のないような時空が出現していたのだが、もしカメラが、もっとそれぞれに寄った位置で、二人を別々に捉えていたらこの感じはテレビでは分からなかっただろう。それにしてもこの時の青空球児の、あの脱力した感じ、どのような重力からも切り離されて、ふらふらと舞台の上を漂うあの感じは一体何だったのだろうか。この番組で青空球児はレポーターのようなこともやっていて、ネタの合間に、浅草の名所などを紹介していたりするのだが、その時はごく普通の「こてこての芸人」風の芸風で、特に何ということはなかったのだが。