●昔、夜中にいなり寿司が食べたくて仕方なくなるというコンビニのCMがあったけど、それと同じように、ふと、観たくなってしまい、新宿のツタヤを覗いて、曾根中生『わたしのSEX白書 絶頂度』(76年)と鈴木清順悲愁物語』(77年)のビデオを借りてきて、『わたしのSEX白書 絶頂度』を観た。この映画を観たのはもうずいぶんと前のことで、改めて観て、たんに70年代的なアナーキズムの最良の成果というだけでは済まされない、とても充実した映画であることに驚いた。この2本のタイトルの並びが想起させるのは言うまでもなく蓮實重彦の『シネマの記憶装置』だろう。現在のぼくの蓮實氏のテキストへの興味は、70年代(蓮實氏30歳代)に書かれたものにほぼ限定されるのだけど、この本も70年代の蓮實氏の「冴え」が、比較的短めのレビューのような文章においても十分に発揮されているのが読み取れる。例えば、鈴木清順加藤泰のような作家を評価することは、多少見識のある人ならば誰にでも可能だろうが、満友啓司や曾根中生をきちんと評価するのは、そう簡単なことではない。そしてそれが、たんなるキワモノ狙いやマイナー趣味などではないことは、『わたしのSEX白書 絶頂度』という映画が、現在観ても十分に驚くべきものであるような充実度を持っていることからも証明されるだろう。
『わたしのSEX白書 絶頂度』の面白さは、鈴木清順神代辰巳のような割合分かり易いアナーキズムにあると言うよりも、繊細な描写を丁寧に重ねてゆくなかに、ふいに新鮮なイメージを紛れ込ませる手つきの冴えにこそあると思う。それはこの映画の冒頭に集約的にあらわれている。おそらく東京の東側の境あたりだろうと思われる町並みの早朝の様子を、一人の男の移動とともに丁寧に描写してゆくなかで、相手の視線を拒絶する身ぶりが、かえって互いの関係を結びつけてしまうということ(の予感)を示すためのショットが的確に積み上げられてゆき、そのなかに、画面を電車が通り抜ける驚くほど新鮮なイメージが挿入され、時折見られる俯瞰ぎみのショットによって空間のひろがりをみせる。これほど複雑で、活き活きとして、充実した画面の連鎖は、そうそうみられるものではないと思う。この映画の画調は、一昔前の日本映画に独特の、やや暗めでしっとりと湿った繊細な感触をもつのだが、その「湿り気」をあくまで画面の表面に停め、それが映画全体に染み出て広がってしまうのをある一線で抑制する演出の距離感はきわめて的確で冴えていると言えよう。そして映画の終盤、人物の関係がまるでゴダールの『勝手に逃げろ/人生』を思わせるような展開になってゆく時に改めて、曾根氏によるアナーキズムの独自の感触を感じることになる。それは楽天的でもなく、ロマンチックなものでもない、冷静で、過酷なものなのだ。この意味でも、蓮實氏がこの映画を「異国の地でなんとか生き延びようとする不幸な吸血鬼たち」(「吸血鬼への書かれなかった手紙」)の話だとする読み取りが、きわめて的確で冴え渡っているということが、改めて確認される。この映画は、まったく言葉の通じない異国のような地で、淡々と日常生活を送り、あたかもその地の言語を受け入れているかのように振る舞いながらも、独自のサイン(血や精液、精液の乾燥した姿としての「粉」)の交換を通じて、それとは全く別の内実や関係を生きている者たちの話なのだ。つまり、『わたしのSEX白書 絶頂度』という映画のアナーキズムも、『シネマの記憶装置』という本のアナーキズムも、決して過去のものではないということなのだ。