●今日は出来れば映画を観にゆきたかったのだが、制作の区切りが上手く都合つかずに、断念する。
●前にも似たようなことを書いたかも知れないのだが、ぼくの作品において「色彩」はおそらく「自律」したもの、純粋に視覚的なものではない。例えば、青は空の色とつながりがあるし、緑は木々の葉と繋がりがあるし、赤や茶色、黄土色といった色は紅葉した葉や土、木肌、あるいは人の肌の色などとつながっている。この「つながり」というのは微妙なもので、決して、青は、空(の色)を「意味している」、ということではないし、あるいは、主に緑色によって描かれた絵は、木々を(抽象化して)「描いている」というようなことでもない。例えば「青」という色彩は、あくまで作品の内部の秩序に従って、他の色との関係によって組織され、配置されているのだが、しかし同時にそれが「空の色」であることからは完全には解放されていない、ということなのだ。それはおそらく、言葉が、それ自体としては抽象的な「差異の体系(形式)」であると同時に、それを発する時の筋肉的な運動や喉の震え、それを書く手の動き、あるいは声の質や文字の形態、それらに付随して浮上する情動などから完全には切り離せないというようなことと似ているのだと思う。そしてそれは、ほくの絵が、一見してそれと分かるような「対象」を描いていないからこそ、その「つながり」が重要なものとなるのだと感じている。例えばマティスの有名な絵で、女性の顔の中心に黄緑色の色帯が貫かれ、顔の左半分が黄色く描かれている絵がある。だがこの絵は、あくまで普通に「顔」が描かれている絵であって、決して「顔に色を塗っている人」や「黄色い顔の人」を描いたようには見えない。それは、この黄緑や黄色が恣意的に顔の部分に塗られているのではなく、画面全体の秩序のなかで、他の色や形態との関係で、ちゃんと「顔」として成り立つように配置されて塗られているからなのだ。この時「色彩」は、顔の色は「肌色」だというような「固有色」から解放される。マティスの絵画は、このような固有色からの解放によって(も)成り立っているのだが、この「解放」は、マティスがあくまで具体的な「対象」に沿って絵を描いている(「黄色い顔」ではなく普通の「顔」を描いている)ことによって保証されている。つまり、絵画が(それがどんなに複雑で精緻なものであろうと)たんなる色彩の視覚的、形式的な配置の問題ではなく、その外にある世界(の記憶)とつながっているということが、「具体的な対象を描く(対象を信じる)」ということによって保証されている。この「外的な対象」(とのつながり)への確信があるからこそ(絵画の外=世界のなかにある「顔」の「記憶」に基盤が置かれるからこそ)、それを描くための色彩が解放され、その自由な運動が可能になる。(マティスの色彩が、表現主義的な色彩と根本的に異なるのはこの点、つまりマティスには実在する外的な対象=記憶への信頼があり、それと色彩との関係性がいつも問題となっているが、表現主義においてはそれが切り離されて「幻想化」されている点においてだろう。)しかしぼくの絵は、とりあえずはそのようなわかりやすい「対象」との関係がない。だからこそ、「青」が、別に「空」の色として画面に置かれているわけではないにも関わらず、どこかで「空」との微かなつながりが感じられ(匂わされ)、完全には抽象化されていない(それを、どこか幼稚な感触を残している、と言い換えてもかまわないが)、というところが重要になるのだと思う。ぼくの作品が、そのような色彩の素朴な使用によって、微かに「世界(フレームの外)」とのつながりを確保している、というものとなっていることを(今のところ)期待している。