保坂和志・ジョン・カーペンター

●観たい映画や展覧会がいくつもあるのだが、なかなか出かけられない。でも、制作が少しすすんだ。足りなくなった画材を買って帰ってくると、(書いているわけではないのに)「新潮」(3月号)が届いていた。保坂和志の「小説をめぐって」(十四)には、たいへん勇気づけられた。まだ本屋に並んでいない(近所の本屋にはなかった)雑誌に載っている文章を引用するのは憚られるのだが、ちょっとだけさせていただく。保坂氏は、佐藤雅彦(「バザールでござーる」や「ピタゴラスイッチ」の人)のような人の思考の「しなやかさ」に賛辞をあらわしつつも、次のようにつづける。
《ところが芸術にはもっと頑固なところがある。それは「しなやかさ」の対極にある何かで、多数の人たちに開かれているわけではない。あるいは本当は芸術こそが最も無防備にすべての人に向かって開かれているのだが、それが無防備でありすぎるために少数の人しか近づけないと言えばいいだろうか。》
この部分で重要なのは前半ではなくて後半だろう。(ここで保坂氏の言う芸術の「頑固さ」というのは、芸術のものというよりも、中年にさしかかった、もはや若いとは言えない(もはや「新しくない」)人間にとって不可避である「頑固さ」であるようにも思う。これは保坂氏が別の部分で、「芸術や小説」は「一人の人間の身体性や経験を総動員するものだから入り口は一人に一つしかない」と書いていることとつながると思う。)この引用部分の後半で言われている、芸術の(無防備でありすぎるほどの)「無防備さ」こそが、少なくともぼくにとって、芸術が「信じる」に足りるものであることの根拠となる。いや、これは別に「芸術」というものの定義とかの話ではなく、人間には(他人とは容易には共有出来ない)堅い核のようなある「頑固さ」があり、それは不可避であるが、そこから入って(そこから入るしかないのだが)、(誰に向かっても開かれている)無防備さにまで突き抜けてしまったような「何か」があり、それこそが貴重な、信じるに足りる「何か」であり、その「何か」を信じ、それを目指し、そしてそれを達成しているようななにものかを、とり合えず「芸術」としておく、ということなのだが。だがそれは、あまりにも無防備であるため、その取り扱いに関する「事前の共有された了解事項(お約束)」のようなものが成り立たず(無防備ゆえに「お約束」を機能不全にしてしまう)、人はそれを前にしてとまどうしかなく、一見、近寄り難いものにみえる、と。(しかしそれはたんに「不可解なもの」ではなく、筋道をきちんと見つけてゆけば接近可能なものなのだ、と。)
●ちょっと無責任な、というか不正確な飛躍かも知れないのだが、たまたま今読んでいるジョン・カーペンターのインタビュー本(『恐怖の詩学/ジョン・カーペンター』)で、カーペンターは次のような発言をしている。
《だから、どうしてわたしがシニカルだってことになるのか理由がわからないね。ひょっとすると、わたしのストーリーがハッピーエンドや元気を出せと呼びかけることには向いていないからかもしれない。自分はだれよりも単純で誠実な映画作家のひとりなんじゃないだろうか。アメリカン・ドリームだろうと、中産階級の夢だろうと、金持ちの夢だろうと、わたしは観客をどんな夢にも引き入れるつもりはないわけだから。わたしはそんなものよりももっとずっと単純で見たまんまなんだ。》
この言葉だけを読むと、ちょっとあまりにも能天気なおっさんのように思えるかも知れないけど、例えば『ゴースト・オブ・マーズ』のような映画を観た人ならば、この言葉がいかに強い「何か」に裏打ちされているかが理解できると思う。重要なのは、ション・カーペンターという名前ではなく、カーペンター的なもの(カーペンター的なやり方、参照項、好み、傾向、つまり保坂氏の言う「頑固さ」)でもなく(いや勿論、それはとても貴重だし、それこそが「愛することを可能にしてくれる」のだが)、それを入り口としながらも、そこから突き抜けたところで達成される「何か」なのだと思う。カーペンターはそれを「単純で見たまんま」という言い方で言っているのだろう。
●ただ、これらのことを、そう簡単に信じてよいのかという不安も当然ある。現実のなかでつくられる作品は、必ずいくらかは不純なものである。目の前には即物的な、身もふたもない社会的な現実があるし、人はその「水のなか」で生きている。ぶっちゃけて言えば、ぼくはセザンヌゴッホみたいに親や兄弟の財産を当てにして制作をつづけることは出来ないし、その事実は当然「作品」のあり様にも影響する。勿論これは、上記の事柄とはまったく「別の問題」である。だからこそ、上記の事柄をエクスキューズにして、身もふたもない社会的な現実の問題を誤摩化してゆくわけにはいかないのだった。(逆に、社会的な現実を「作品」のエクスキューズとすることも出来ない。)芸術至上主義のような楽な逃げ道はないわけだ。あるいは、「芸術至上主義者」になるためには、そうなれるための状況(隙間)を努力して作り出さなければならないのだ。困ったことに。