『オーソン・ウェルズのフェイク』

●『オーソン・ウェルズのフェイク』をビデオで。前に観たのは確か十代の頃だったので、ほとんど忘れていて初めて観るようなもの。とても面白かったのだが、終盤のオヤ・コダールとピカソについての小話は、誰がみても余計で、ない方がよかったと思う。贋作画家エルミアを巡るドキュメンタリーなのだが、そのエルミアについての評伝を書いているのがハワード・ヒューズの偽の評伝を書いた贋作作家アーヴィングであり、さらに、このドキュメンタリー映画をつくっている作家もまた、あの「火星人襲来」のオーソン・ウェルズであることから、ここで示される「事実」のことごとくが、その「事実性」を疑われることになる。いかにもうさん臭い画家エルミアの言動は、評伝作家アーヴィングによって訂正されるのだが、このアーヴィングにしてからが贋作作家であり、その「唯一」の「本当」の評伝が贋作画家エルミアのものである、なんていうところからして訂正(発言)そのものが怪しい。(それにアーヴィングの発言はその妻のものと矛盾する。)さらに、このドキュメンタリーをつくっているオーソン・ウェルズ自身が、エルミアについての物語を語りつつ、同時に、自分がいかに「魔術師」であり、映画がマジックであるかという自己言及を、あざやかなテクニックを駆使することでおこなっている。かくして、ここで「映画」として示されている「事実とされる映像(と物語)」のことごとくが、「語りのテクニック」によって成立しているものであることが常に意識され、映像によって語られるもの、と、事実(現実)との結びつきを保証するものの一切が宙につられる。ウェルズは、エルミアとアーヴィングに関するドキュメンタリーの部分は「本当のこと」なのだと語るのだが、この映画(だけ)を観ている限り、エルミアという人物自体がウェルズによってつくりだされた虚構の人物であり、の映画は疑似(偽)ドキュメンタリーなのではないかとさえ、疑わざるを得なくなる。
しかし、もしそれだけだとしたら、この映画はそんなに面白いとは言えない。(この手のメタ・フィクション的ポストモダン映画は今ではありふれてさえいるだろう。)この映画が貴重なのは、あらゆることが(うさん臭さを強調する「語り」によって)事実との繋がりを断ち切られて、真と偽の間で宙づりにされているにも関わらず、カメラの前で実際に描きあげられるマティスの(偽物の)ドローイングやタブローが、少なくとも画面で観る限りはかなり素晴らしいものだという事実だ。つまり、エルミアという贋作画家が実際に存在しようがしまいが(虚構の人物だろうが実在の人物だろうが)、この映画の撮影された時、カメラの前でマティス風ドローイングやタブローのを描いたその人物の「腕前」が、相当たいしたものだということだけは疑いようがない「事実」なのだ。この、エルミア(ということになっている人物)は、マティスの線は少し迷うのだ、とか何とか言いつつ、真っ白なキャンバスの上にさらさらとマティスとしか言えないようなタブローを完成させる。(そして燃やしてしまう。)この絵は、マティスの最良のものとは言えないまでも、ごく普通のマティスとしては充分に通用するものだ。(この他、モジリアニもかなりイケていたが、ピカソはイマイチという印象だった。)つまりこの映画は、そのうさん臭い語り口でもって、逆説的に芸術の「質」の真実性を浮かび上がらせているように思う。「マティスの絵」とは、マティスの絵としか言いようのない「質」を獲得している絵のことであって、それが実際にマティスによって描かれたものであるかどうかは、本当はどうでもいいことなのだ。マティスの絵の素晴らしさは、マティスという個人が所有するものではない。だから、このエルミアと称する贋作画家の描いた「マティス」が、(マティスの絵と言い得る「質」を獲得しているならば)マティスとして美術館に収蔵され、展示されているとしても、それは別にかまわないとぼくは思う。と言うか、それは「マティス」なのだ。(エルミアは、それによって世の中の価値体系の、威張り腐った権威の、「転倒」のようなものを狙っているような発言を映画のなかでしているが、しかし実際彼がやっていることは、マティス個人ではなく、マティスの絵の「質」の賞賛でしかないようにぼくには思える。)誰の手によって描かれたものであろうと、「マティスの絵」はマティスの絵である。逆に言えば、芸術の「質」は、名前や来歴によって必ずしも保証されるものではない。あらゆる「事実」との繋がりやその保証を断たれたこの映画の語り(映像の連鎖)のなかで、芸術の「質」の事実性だけがくっきりと浮かび上がってくるのだ。