、佐藤友哉『鏡姉妹の飛ぶ教室』

●シュウゴアーツに、辰野登恵子・展を観に行き、行き帰りの電車のなかで、佐藤友哉の(待望の)新しい長編『鏡姉妹の飛ぶ教室』を読む。辰野・展は今日が最終日だと思って無理して出かけたのだが、来週までやっているみたいだった。
●『鏡姉妹の飛ぶ教室』は、今までの佐藤氏の小説のなかで最も上手く組み立てられている分、佐藤友哉という小説家の危険な面がはっきり出てしまっているかもしれないと思った。それは読者(の情動)を巻き込むやり方が、自己啓発セミナー的というか、マインド・コントロール的なところがある、ということだ。つまり、いきなり非現実的・非日常的な場面に読者を直面させ、登場人物(や読者)がアイデンティティーの不安を感じるように誘導し、その、日常的で「まっとうな」価値観が揺らいでいる不安の状態のなかで、「上/下」とか「支配/従属」とか「強い/弱い」とか「逃げる/逃げない」とか「非凡/平凡」とか「本気/本気でない」とか「勝ち/負け」とかいうような、現実と対応しない(現実はそんな単純には捉えられないはずなのだ)言葉の上でだけの(オン/オフ、あるいは、ポジティブ/ネガティブといった)二元論的論争を組織することで、読者を不必要に発熱(興奮)させるという手法だ。これは、逃げ場を失った状況に人を追い込み、その余裕のない状況によって平常の感覚を喪失させ、人の判断を現実と切り離し、その上で「脳内(言語内)」だけの論理で人の思考を誘導するマインドコントロール的な手法と重なると言えるだろう。今までの佐藤氏の小説にも同様の傾向があったのかもしれないが、それは、小説がそれほど上手くは組み立てられていないということによって相殺されていたのだろう。だがこの小説では、そのヤバさが、無視出来ないくらいにはっきりと露呈されている。この点は、指摘され、批判されなければならないと思う。しかし、ただその点だけをもって否定してしまうには惜しい魅力が、この小説に備わっていることも否定できない。
●この小説は、議論小説と言っても良いような側面を持つ。しかし、ここで展開される議論の内容はきわめて幼稚なものであり、上述したように、現実とは切り離された単純な(言葉の内部のみで成り立つ)二元論に捕われてしまっている。登場人物たちが披露するそれぞれの「思想」は、端的に「痛い」としか言いようがない。だが、決して少なくはない数の登場人物たちによって、それぞれの立場を主張する言葉が延々と重ねられるうちに、ほとんど「キャラクター(役割)」として設定されているだけに思える薄っぺらな登場人物たちに、ふと、それを越える「厚み」が生まれる瞬間があることは見逃せないだろう。(もしかすると、「幼稚な思考」のなかから「厚み」が出現することこそが、重要な点なのかもしれない。)恐らく、書いている佐藤氏が事前に用意した「設定」からはみ出てしまうところまで、実際に「書く事」に連れていかれている部分が多分にあるのだろうと推測される。このような部分こそが佐藤氏の小説の力である。だいたい佐藤氏の小説の魅力は、混乱した状況を安易に整理することなく、混乱したまで描き出し、混乱したままで強引に動かして行くような不思議な腕力にこそあるのであって、だからこそ、自前には予測し切れない様々な要素が必然的に入り込んでしまうような物理的な「長さ」が、その腕力が発揮されるために必要なのだと思う。だから、個々の登場人物たちの設定の薄っぺらさ、あるいは彼らによって披露される思想(というか意見)の幼稚さや至らなさを指摘することだけで、この小説の魅力を否定することは出来ない。複数の人物たちが同時に行動し主張し、複数の場面が同時に動いてゆくような、その全体をコントロールし記述し切れないような状況を強引にコントロールし記述しようとする時に、佐藤氏の小説では「何か」が、佐藤友哉の小説としか言いようなのい感触が、たちあがるのだ。
佐藤友哉の小説は、個々の細部の魅力というより、ひとまとまりの全体として「ある感触」が迫ってくるようなものだと思う。(だから、ある特徴的な部分を引用して、そこを分析するというようなやり方では、捉え難い。)
唐突だが、風邪を治すために「眠る」ということは、かなりの重労働である。つまり、身体を「風邪を治す」ことに専念させるために他の活動を最小限度にとどめるように(外に対する反応を一時遮断して)「眠る」わけだから、眠っている時にこそ、「風邪を治す」活動(闘い?)が体内でフル稼働しているということだ。だからむしろ、眠っていない時の方が身体は楽で、眠っている時こそが辛い。身体が風邪と闘っているわけだから、ぐっすりと深く眠れるわけではなく、眠りは浅く、喉の腫れや絡む痰で呼吸は苦しく、熱っぽく、意味不明の断片的な悪夢に襲われ、何度も目覚め、目覚めるたびにまた眠らなくてはいけないと重たい気持ちになり、無理矢理に眠り込もうとする。眠っている時には「眠っている」ので「辛い」という感じが意識に昇ることはあまりない(あるいはその「記憶」はほとんど残らない)のだが、それは目覚めた時の、重労働の後のような重たい疲労の感触によって推測される。突飛な比喩かも知れないが、佐藤友哉の小説の「全体」から感じられる感触は、ぼくに、このような「風邪を治すために眠っている時」の身体全体の感触の記憶と響き合うようなもの(重い疲労感)を感じさせる(意識的には記憶にないはずの「記憶」を喚起させる)。そのような意味で、佐藤氏の小説は、「私」の内部に閉ざされた(外側と切り離された)小説であると言えるかもしれない。しかしそれは、たんに私という自意識、あるいは私の脳内に閉ざされたというのではなく、それをはみ出して、私の身体全体の活動(の記憶)にまで関係する。つまり、風邪をひいて眠っている時の「悪夢」のような小説なのではなく、風邪をひいて眠っている時の身体全体の活動(反応)の総体(の感触)の「記憶」を喚起するような(それと響き合うものがあるような)小説なのだと思う。いずれにしても、ある閉ざされた身体内で、何かしらの治療なり治癒なりが進行しつつある、というようなのっぴきならない感触がある。(だからこそ、それがマインド・コントロール的な傾向を持つことの危険は大きいと言えるのだ。しかし、『鏡姉妹の飛ぶ教室』は、読者をある一定の方向へと促すような単純なメッセージには還元されないような複雑さや混濁があり、さらに、そのラストは、作品の内側と外側とを、二重に切断するような仕掛けになっており、読者が作品内部を読了後に過剰に引きずることがないように考慮されていて、いわば、目覚めたら何とも言えないけだるい感触と重労働の余韻だけを残して、風邪は良くなっていた、というような感じになってはいるのだ。)
●余談だが、ぼくはこの小説で多数なされているであろう「引用」についてはほとんど分からないのだが、普通だったら「引用」という行為は、何を引用するかによってそのセンスの良さを競うような感じがあると思うのだけど、佐藤友哉にとっての引用とは、その参照元の選択に関する特定のセンスの統一性も、その「センスの外し方」のセンスも関係なく、ほんとうにただ雑多なものから引いてくるだけなのだなあと実感したのは、いきなり『震える舌』なんていう映画のタイトルが出てくるところで、これには、全く意外な場所で、すっかり忘れていた人に出くわしたような、へんな面白さがあるのだった。