●ぼくがゴダールの映画で断然好きなのは80年前後につくられたもので、『勝手に逃げろ/人生』(79)『パッション』(82)『フレディ・ビアシュへの手紙』(81)といった作品だ。確かに、『女と男のいる舗道』(62)の古典的ともいえる美しさは圧倒的だし、『はなればなれに』(64)の青春映画としての瑞々しさは今日でも輝きを失っていないと思える。あるいは、90年代にはいってつくられた、高度に濃縮されたエッセイ的な映画、『新ドイツ零年』(91)『JLG/自画像』(95)の奇跡的な美しさは、誰も否定できないだろう。しかしそれでも80年前後のゴダールが特別に素晴らしいと思えるのは、この時期の作品には世界にむかって「開かれている」感じがとても強く感じられるからだ。
ゴダールの『映画史』(98)を観るためには、それなりの映画史的な知識が必要とされる。まあそれは、この映画が「映画史」を(同時に20世紀の歴史を)題材とした映画なのだから当然とも言えるが、しかし、70年代の後半にカナダで行われた連続講義を本にした『ゴダール/映画史』という本があって、こちらの方はむしろ「映画史」を否定するとまでは言わないにしても、いわゆる「映画史」とは無関係な形で、たんにそこにあらわれる「映像」として、映画史上の著名な作品や自作をどのように観ることが出来るかということが問われているように思う。一本の映画作品全体を問題にするのではなく、断片化された映像をいくつか並べてみることで、そこから何かを読み取ろうとするという手法はどちらもかわらないが、そこから「何」を読み取ろうとしているかの方向性は、かなり異なっていると思う。そしてぼくには、映画『映画史』よりも、本『映画史』の方がずっと面白いと思える。そこには、たんに「観る」こと、「観る」ことからはじめて考えることの重要性について、例えば次のような発言がある。
《私が言いたいのは、『都会のアリス』のような[シナリオがそれほどくわしく書かれてはいない]映画の場合でさえ、監督は、ひとつのカットを撮りあげると、次にどういうカットを撮るべきかを知るために、その撮りあげたカットを見るということをしないということです。次にどういうカットを撮るべきかはすでに分かっているのです。マック・セネットにはそれはわかっていませんでした。映画の草創期だったわけで、それがノーマルな状態だったのです。チャップリンにもわかっていませんでした。私の場合も、事情は違うにしても、いくらか似たところがあります。》
とりあえず撮られたカットを「見る」ことによって、その次を考えること。それを実際に「見る」以前に、あらかじめ約束された(前提とされた)「次」があるわけではないこと。この時期(80年前後)のゴダールの映画は、まさにここでゴダールによって語られた通りにつくられていると感じられる。(しかし映画『映画史』では、事前に用意された物語、あるいは「泣かせる」調子のようなものの方が強くなっていると思う。あるいは、いくつかの映像をたんに観ること、それによって考えること、だったはずのものが、複数の映像の間に生じる示差的構造(効果)のようなものに一般化されてしまっているように感じる。これは、「歴史(物語)」との関係をより強く持つことによる必然的な事態なのだろうけど。)
●「新潮」3月号に載っている保坂和志の「小説をめぐって」(14)の最後の部分に、かなり多量のゴダールからの引用がある。ここで引かれるゴダールの発言はどれも面白い。だが、保坂氏は触れてはいないのだが、ここに引用されているゴダールの発言の多くが70年代終わりから80年代初め頃の時期になされたものだという事実がある。やはりこの時期のゴダールは何か特別に冴えていたのだと思う。ゴダールはハッタリの名人でもあり、その場に応じてとても「上手い事」を言う。(例えば「映画と文化とは不倶戴天の敵同士である」みたいな)それは、ある限定された場面、ある特定の関係性のなかでは抜群の効果を発揮するが、それをはなれた所ではほとんど意味をなさない。(批評家としてのゴダールは、まさにこの「上手い言い方」の切れこそが持ち味だった。狭義の「歴史」と関わるというのは、そういうことなのかも知れないけど。)しかし、ここで保坂氏によって引用されているゴダールの発言はそれとは全く別の側面だと言える。そして、ゴダールの偉大さは、「上手い事を言う」ゴダールとは別のところに(も)あると思う。極端なことを言えば、ここで引用されているゴダールの発言は、ゴダールの作品と切り離されたとしても意味があるようなものだ。
●保坂氏による引用を読んで刺激され、改めて『ゴダール/映画史』や『ゴダール全評論・全発言2(1967-1985)』を、パラパラとめくり返して読んだのだが、これらの本のなかのゴダールの発言は本当に面白くて、それはゴダールの映画が苦手な人(例えば『映画史』を観て、ちょっとこういうのは勘弁してほしい、とか思ったような人)に対しても開かれているのではないかと感じた。例えば『ゴダール全評論・全発言2(1967-1985)』には、ゴダールが開発を依頼した小型カメラについて、ゴダールとカメラ開発の技術者とが対話している「あるカメラの創世」という記事があるのだが、この記事は、作品をつくることと技術の不可分な関係、そしてそこに(立場の違いによる)横たわる解消し難い矛盾のようなものを、きわめて明確に浮かび上がらせている点で貴重なように思う。これはたんに映画を実際に作っている人にとって意味があるということではなく(この対話がなされた83年当時と現在とでは撮影の技術そのものに著しい変化があると思われるので、直接的なな意味では映画をつくる人にも役には立たないだろう)、あらゆる人にとって貴重なものを含んでいるのではないだろうか。
例えば、一度に2分撮影するための長さのフィルムしか装填出来ない「アトン35」という(ゴダールによって発注された)小型カメラについて、ゴダールの助手であるグービルが、その撮影可能な時間の短さが映画のエクリチュールとは相容れないと言うことに対するゴダールの発言。
《ぼくが六十メートルのマガジンをつけるカメラを注文したのは、マガジンにフィルムを詰める時間をとり、その時間を受け入れるため、その時間を撮影のなかに組み入れるためだ。そして『カルメンという名の女』の最初の二日間の撮影はそんなふうにしてなされた。ところがスタッフがもう一人雇い入れられ、そいつがフィルムを詰めるようになると(略)ひとつのマガジンをつかいおわるときにはすでに別のマガジンが用意されているようになってしまった。》
この発言をグービルは、たんに撮影の間にものを考える時間を稼ぐための方法の一つとしてしか受け取らないのだけど、ここでゴダールの言っていることはもっと根本的な、あるひとつの道具の性質によってつくりだされる「撮影の時間」のあり方(の変容)であり、ゴダールはそのようなあり方をこそ、自分の映画に必要としているということなのだ。そして、これらの対話を受けての、このカメラの開発者でもありアトン社の社長でもあるボーヴィアラの発言。
《このカメラは、映画づくりにおけるこれまでのとは違う仕種のためにつくられたカメラです。あなたはさっき、ソーセージとソーセージを輪切りにする機械のことをいわれましたが、私が思うのに、現在このカメラには、ソーセージを製造する能力は完全にそなわっています---つまり、このカメラは依然として、ごく小さくしかも遊戯性にとんだカメラだということです---。でも厄介なことに、そのソーセージを輪切りにする機械がまだ存在しません。つまり、このカメラで撮った特殊な映像のなかから、これまでとは違うタイプの映画をつくるのにつかわれる映像をとり出すことを可能にする、生産後の生産(ポスト・プロダクション)の道具がまだ存在しないのです。》
この発言は、グービルのものよりはずっとゴダールの意図を理解していると言えるが、しかしここにも決定的なズレがある。ゴダールにとっては、「生産後の生産の道具」の有無などとは無関係に、ある種のカメラによって可能になる「撮影」の状態が必要とされていて、その「撮影の状態」によって撮影された「映像」がどのようなものになるのかを「確かめてみる(実践してみる)」ことがまず求められている。(つまりそれが実際にどのようなものになるのかは、「その状態」でやってみなければ分からない。それこそが「映画をつくる」という行為なのだ。)対してボーヴィアラは、自らが開発したカメラの「有効な使用法」(カメラの開発の意図)はあらかじめ存在していて、だからこそそれを生かす「生産後の生産」の不在が問題となる。これは勿論どちらが正しいということではなく、立場の違いのようなものであり、その違いがはっきりとあらわれていることこそが貴重なのだし、その「あらわれ」が、(映画をつくっているわけではない人にも)制作と、それに必要な道具や技術との関係のあり方に関する、多くの刺激や示唆を与えるのだと思う。
●何が言いたいのかと言えば、『ゴダール/映画史』や『ゴダール全評論・全発言2(1967-1985)』は、ゴダールの映画が嫌いな人でもきっと面白いから、お勧めするということなのだった。