岡崎乾二郎『ホームレスについて』

●以下は自分のためのメモ的な要約。例によって、要約と自分の考えとが曖昧に混じっていて、要約としては正確ではないので、信用しないで下さい。
岡崎乾二郎は『ホームレスについて』(「美術手帖」95年7月)という重要なテキストで、「〈見ること〉は、既に構成されている〈対象〉に依存している」というようなことを書いている。つまり「猫を〈見る〉」という時、「見る」ことは「猫」という対象がそこに(あらかじめ)いることによってはじめて可能になる、ということ。何も存在しない場所では(網膜に集まる多様な光の戯れだけでは)、「見る」こと自体が成立せず、「見る」ためには、既に統合された対象(イメージ=表象=見られるもの)が必要不可欠となる。「見ること」は、既に統合されている対象(イメージ)によってしか統合されない。ここに視覚と聴覚の根本的な違いがあり、だからいくら「音楽を聴くように抽象絵画を観ましょう」と言っても、なかなか人は簡単にはそれを受け入れられない。人の視覚は、そこに「何か(対象=イメージ)」を見いださなければ「手応え」を感じることができない。これは恐らく、歴史的・文化的に決定されたコードではなく、人間の知覚や脳の基本設定に関わることだと思われる。つまり、視覚=網膜は既に(生物学的な意味で)レディメイドである、と。(ただ、「見ること」がそのまま「音楽を聴くこと」に自然に近づいてゆくような特異な「対象」というのもあるだろう。例えば、山や林のなかで、無数の幾重にも重なった木の葉が風に流されて揺れているところ、とか、高台から見下ろす夜景で、無数の灯りが点在し、無数の車のライトが道路を流れて動いてゆくような風景、など。)
岡崎氏にとって、モダニズムの視線とは、それでもなお「対象」から「見ること」を引き離そうとするものだ、ということになる。例えばクールベのリアリズムは、その分離によってこそリアリズムたりえた、と。つまりそれは、画面に「猫」を描く時、そこに歴史的・風俗的・物語的な必然性(画面に猫が導入されるための言い訳)とは一切無関係に(見えるように)、「いきなり」猫(のイメージ)が出現したかのように描く。その時、猫がそこにあらわれるとは全く予想もしていなかった視界に、いきなり何かぐにゃりと動く小さな肉の塊が侵入してきた時に感覚に生じるショック、に近いものとしての「猫のイメージ」の出現が可能になる。何かぐにゃりとした小さな肉の塊が、その動きが、「猫」というイメージに統合される寸前に、そのごく短い間に感覚にあらわれるショック。(その時、観ている主体とその対象の「関係」としての「視線」は成り立たず、ただ、世界そのものであり同時に「私」であるような、所在の確定しない視覚像があらわれる。)その一瞬のショックとしてイメージ(対象)がたちあがる時、「見ること」が猫という「対象」とは分離されたものであることが(辛うじて)可能になる、と。このような分離が実現されているからこそ、クールベの絵肌が、ゴツゴツした物質性を持っているということが(そこに描出されているイメージの生々しさとは切り離されて、それと同時に)、生々しく観者の感覚にたちあらわれてくるのだ、と。
抽象表現主義(の一部)によって試みられた「ホームレス・リプレゼンテーション」という方法もまた、同様の効果を狙っているものだ。この、「帰する場所なき再現性」とは、簡単に言えば、具体的に何が描かれているのかは分からないのだが、何かが描写されているような「匂い」だけを画面に漂わせること、つまり出自不明の(何だか分からないがどこか親しげな)不定形を、その形態が突出するでもなく、地に溶解するでもないという程よい案配で描き出すことで、「対象の描写」から、その「対象」だけを括弧に入れて、描写の手応えだけを画面として示そうとするものだ。岡崎氏はこの方法を、「絵画」というカテゴリーを先験的に(つまり無条件で)措定した上でなされる(主にグリーンバーグに端を発する)論理的誤謬から発したものであり、それは端的に「退屈」だ、とする。
《まさにカント風にいえば、先験的に与えられた概念内部での自己の画定作業はアンチノミーから出られない。「図/地」「物体/空間」「物理的/視覚」など、さまざまな矛盾律がそこで語られたとしても、基本的には、それらの図式の下部に或る「絵画である/ない」という矛盾した表明の点滅から、それらは派生しているにすぎない(それをイメージの「出現/消滅」の点滅などといいかえるのは笑止である)。》(余談。この部分は、誰のどの文章を揶揄しているのかがまる分かりで、生々しすぎるのだけど、そのような狭い場所での「文脈=関係」など、それこそ切断すべきだと思う。)
モダニズムにおいては、様々な様式が等価なものとされ、その結果としてめまぐるしい様式の変化が起こったのだが、そこで問題にされていたのは、目に見える効果としての「様式そのもの」ではなくて、なにによって「様式の交換可能性」が保証されているのか、ということ(様式の「変換」を可能にしている基底的なものの所在、あるいはその所在の無さ)であったはずだ。もし、その交換可能性が、絵画なり、芸術なりという概念を先験的に定立させること(その上での、「芸術である/ない」という境界画定)によって保証されていたに過ぎないのなら(つまり二項対立を影で支える第三項のようなものによって保証されていたにすぎないのなら)、モダニズムなどいうものにもはや意味はない。
《ホームレスに定住してしまえば、もはやそれをホームレスということはできない。定住先を自ら決定できない(境界画定は内在的にはできない)という、強いられた受動性を積極的に活用することによって、道は開かれる(つまり、クールベ的な意味での切断も可能になる)。》
我々は、「定住先を自ら決定できない(境界画定は内在的にはできない)という、強いられた受動性」のなかで生きるしかないし、行為するしかないし、仕事をするしかない。(つまりこれは、「メタレベルは存在しない」ということだろう。)正直ぼくには、岡崎氏の言うような、強いられた受動性を「積極的に活用する」というような能動性へと転化するようなイメージをもつことは難しいのだが(強いられた受動性のなかで溺れながらジタバタするというイメージしか湧かないのだが)、少なくとも、「強いられた受動性」を忘れたとたん(それをナメたとたん)に、作品は退屈になることは確かだと思う。
●この『ホームレスについて』というテキストは、これが発表された95年当時、日本でやたらと流行っていた(似非)抽象表現主義風の絵画や、それをもてはやす風潮(このテキストが掲載されている「美術手帖」の特集は「快楽絵画」だったりする)に対する批判として書かれているのだが、現在ではそのような絵画の流行は、嘘のようにきれいに消えてなくなってしまっている。つまり、文脈上の意味としては、既に古い、意味のないテキストなのだが、にも関わらず現在でもきわめて面白く説得力がある。つまり、テキストそのものの充実が、その目的や文脈を越えるという良い例だと思う。