ギャラリー覚の金田実生・展

05/03/13(日)
●昨日観た、ギャラリー覚の金田実生・展(http://www6.ocn.ne.jp/~g.kaku/kanedamio.html)について少し。
●金田氏のタブロー(ドローイングは、またちょっと感触が異なるのだが)は、「目ではないものによって見られた」視覚像とでも言えるようなものを示していると思う。例えば、夢で見られたものとか、目を閉じている時に捉えどころなく、染み出るようにあらわれてくるイメージのような。その作品が示す像は、実際に目を開いて「見ている」像とは、視野の歪み方や狭さ、焦点の当たり方や外れ方が異なるし、光のあり方も、光がものの表面に反射してものが見えるというよりも、そこに描かれている場全体が内側からぼうっと発光しているような見え方をしている。(このことが最も分かりやすくあらわれているのが、人や犬の顔を描いた小品で、それらの作品では、非常に限定された狭い視野による「像の見えづらさ」が、逆に(視覚的なものとは別の)広がりを生みだしているように見える。これは画面の多くの部分の焦点が外されていることの効果によるもと思われるのだが、この焦点の外し方には独自のものがあり、写真のボケやブレを単純に再現したようなものとは異なる。)このような、「見る」ということとは別の原理によって構成されているような視覚像は、記憶(の集積)によって構成された像、対象の知覚ではなく想起によって得られた像、に近い感触を持ち、だから恐らく、その作品を見ている人の、「見る」(知覚する)行為よりも、それぞれの観者自身のもつ「記憶(への没入)」の方をつよく刺激することになる。(金田氏の作品では、描かれる形態にしても実際に「見えているもの」のもつゴツゴツした感触は、マイルドなまるさのようなものに包み込まれ、つるっとした感触にかわる。しかしそれは決してあっさりとしてしまうわけではないのだが。)このことの効果は両義的で、具体的に「見えているもの」を越えて、見たことの集積としての(あるいは「見ること」に限定されない厚みをもった)「記憶」へと働きかけ、見ることだけによっては得られない豊かな感触を観者のなかに喚起するのだが、それは同時に、実際に目の前にある作品を「見ること」の精度をやや甘くさせもするのではないだろうか。(ちなみに、ドローイングでは、「描くこと」の痕跡である線の「表情」が強く出るので、作家も観者も、その表情に引っ張られて、「見ること」の方に強く傾くように思う。)
●いかに、それが記憶による像や、夢の像(つまり「目」ではないものによって見られる像)のような感触を持つとは言っても、絵画である限り、それは目の前にある絵の具と支持体によって実現されたものである。つまりそれは「像(映像)」には還元され切ってしまわない物質的な手触りがあり、それが「目」を刺激し、「見ること」の注意深さを誘い、持続させ、それが、絵画によってしか得られないような「質(感触)」を持った「像」を出現させる。金田氏の作品が時に「映像的」なものに見えてしまう弱さがあるとしたら、像を像として成立させることが優先されるあまり、「見ること」の注意深さを常に刺激し喚起させるような、絵画の物質的な感触への配慮がやや単調になってしまうことがあるからではないだろうか。具体的に技術的なことを言えば、キャンバスに描かれた作品では(おそらくキャンバスの表面が絵の具を吸収しないからだと思われるのだが)、必要以上に絵の具に触り過ぎることで、絵の具が過度に混ざってしまっていて、物質感としても色彩としても、ややヌルい感じになってしまうことがあると思う。画面に絵の具がしっかりと着いていなくて、筆のタッチに沿って表面を流れてしまっている、と言えば良いのか。(暗い色はそうでもないのだが、比較的明るい色においてそれが見られる。)対して、紙に描かれた作品は(おそらく紙が絵の具を吸収し、支持体と絵の具がしっかりと噛み合っているからだと思われるが)、絵の具の質がヌルく感じられることは少ないように思う。ぼくは、紙で描かれた正方形の(展示作品のうちで一番大きな)作品は、良い作品であるように思う。そこでは、夢のようにたちあがる像が、目の前にある物質によって成立していることが常に意識される。つまり、目ではないものによって見られたような像(無数の記憶の集積によって構成された、夢のように捉え難い像)が、今、ここで、実際に「目」で「見ること」(直接的な知覚)によってたちあがってくる、というような、とても不思議な感触があると思う。