オリヴェイラ『メフィストの誘い』

オリヴェイラの映画のテキストと映像(音声)との乖離についてはこの日記で何度も書いていてそのくり返しになるけど(例えば「http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/yo.29.html#Anchor4528313」)、『メフィストの誘い』をDVDで観ていて、その不思議さを改めて思った。この映画ではまず完結したものとしてのテキストが先にあって、それによってフォルムが決定され、映像(や音声)はあくまでそのテキストに導かれて後からやってくるという感じなのだ。この映画におけるテキストとはまず『ファウスト』であろうし、次にその翻案として書かれたこの映画のシナリオであるだろうし、さらに俳優によって実際に口にされる言葉であるだろうが、そのような実在するテキストという意味だけでなく、映画作品そのものが、実際には存在しないある(イデアのような)潜在的なテキストの存在によって成立していて、その潜在的なテキストの、限定されたひとつのあらわれとして『メフィストの誘い』という映画がそこから派生しているという感じと言えばよいのか。だからといって映画そのものが、そのテキストの絵解きだったり、そのテキストに従属していたり、あるいはテキストの内容を映像によって尤もらしく(説得力を持って)造形し表現しようとするのですらなく、テキストに忠実なものとしてテキストから生まれたにも関わらず、テキストそのものから決定的にずれてしまっているところ、その関係性が面白いのだと思われる。
この映画の基底にある(出来上がった映画作品による「効果」によってあるかのように感じられる)テキストそのものの内容については、ぼくはあまり関心が持てない。『ファウスト』的な主題についても、その世界から策略を操る特権的な人物の超越性を剥奪した映画の人物配置にしても、その寓意性についても、それ自体としてさほど面白いとは思えない。テキストの次元で言えば、森はいわば観念としての「森」であり、書き割りでしかない。それは修道院や鍾乳洞や入り江(海)も同様であって、それらは言葉の「意味」として組み立てられているように思う。人物にしても、それぞれにあるタイプと言うか典型を示しているだけで、ジョン・マルコヴィッチカトリーヌ・ドヌーヴもルイス=ミゲル・シントラもレオノール・シルヴェイラも、ただ「言葉」でだけできているようにみえる。だが、「森」という器に、(マリオ・バロッソによる素晴らしくデリケートな)具体的な「森の映像」が満たされ、典型として造形された人物に、具体的なレオノール・シルヴェイラの映像があてられる時(その口によって、ほとんど外側から貼付けられたかのような言葉が具体的な声・音に乗る時)、そこに、具体的な視覚的(聴覚的)密度と感触をもった抽象性があらわれるというか、目で見ることしか出来ない抽象的な概念があらわれるというのか、とにかくそのような尤もらしい言い方では捉えきれない、ある摩擦的な力が浮上するように思う。いや、こういう言い方は正しくなくて、具体的な映像によってあらわになるのは、テキスト(言葉)と映像との重なり合いではなく、むしろ分離であり、その分離する力によって、映像が映像そのものとして際立ち、(あくまで潜在的な次元に留まる)テキストがテキストそのものとして際立つのではないだろうか。だいたい『メフィストの誘い』という映画は、ゲーテや翻案としてちっとも尤もらしくない(もっともらしさには無関心な)のだ。ルイス=ミゲル・シントラの「怪しさ」は、テキストがその役割に要求する怪しさではなくて、あくまでルイス=ミゲル・シントラ(の映像)そのもののもつ「怪しさ」にすぎないのだ。そして(テキストに字義通りに忠実なのにも関わらずあらわになる)、その重ならなさ(分離)こそが、ルイス=ミゲル・シントラ(の映像から受ける視覚的感覚)を粒立たせ、それに即物的な密度と力を与えているように思う。映像は、潜在的なものとしてあるテキストから生み出されるのだが、それは徹底して偶発的・具体的なものであって、テキストが要求する普遍的性格を満たすことが出来ない。しかしそれは徹底して偶発的、具体的であることの力、今、見えている(今、感覚に作用している)ことに力と強さによってテキストから分離し、別の力をもつ。そして双方が、重ならないままで共立する、とか言うと、ちょっと尤もらしくなりすぎるけど。以上のような面倒な話とは別に、『メフィストの誘惑』は、ひとつひとつのショット、そのフレーミング、繋ぎ方などにいちいち驚かされるような、単純に面白い映画なのだった。