●現在は、超越的な次元(第三者の審級でもメタレベルでもよいのだが)の消失した時代であり、それが問題なのだという言説があり、例えば北田暁大の『嗤う日本のナショナリズム』などはそのような問題を取り扱ったそれなりに立派な本ではあるとは思う。
アイロニー第三者の審級(超越的なフレーム)が成立している時に、それとの(批評的)距離によって成立するが、超越的なものが消失してしまえば、他者との関係はその「繋がり」(ある発言が別の人の発言によって「受け継がれること」)によってのみ成立することになり、だから繋がりの「容易さ」がこそが性急に求められ、アイロニーに仕掛けられていた距離や保留やねじれは無効となり、ほとんど内容の無い形骸化された「紋切り型」ばかりが、早いスピードで次々と接続されてゆくことになる。この時、発言される「内容」はただ「繋がりやすさ」だけが追求された(場を盛り上げることだけを目的とした)「ネタ」で、発言者はそれを本気で信じているわけではない(シニシズム)のだが、しかしそこには、超越的な次元が成立していないので、自らの発言が他者によって「受け継がれること」(によって承認されること)でしか「自らの存在」を確認出来ないという「切実さ」が否応なく貼り付いている。(存在論的な次元での、自己顕示=自己確認=自己充足への原初的欲望がある。)だからしばしば、もともと無内容であるネタは、無内容であるがゆえに緩衝地帯を経ずに急激に逆方向へ振れて(切実な「感情」が貼り付いて)「ベタ」となって吹き上がり、あまりに幼稚なロマン主義へと雪崩れ込む。
ここで問題とされているのは、人は超越的なもの抜きで、どのように他者と関係することが出来るか(他者との関係における自己確認=自己充足を行うことが出来るか)、ということだろうと思う。超越的なものが信じられず、自らのアクションに対して、他人がリアクションしてくれること(リアクションを直接確かめること)によってしか自己の位置を確認出来ない時に、「自己承認=自己充足」への(幼稚だが原初的で力強い)欲望をどのように相対化して処理し、(幼稚な吹き上がりに至らずに)他者との共有の場としての「社会」のなかでの行動や、発言を抑制し、調整することが出来るのかという問い、と言うのか。人間にとって、他者への欲望を通してしか、自己の存在の手応えを確認出来ず、自己の欲望を充足させることが出来ないということが基本設定として動かないとすれば、超越的なものの消失は、閉じられた狭い関係内部での愛憎の増進と、短いスパンでの結果(問いかけに対する応答)の要求ばかりを招くことになるだろう。確かに東氏の言う通り、それを全て「悪いこと」とするのは、「超越的なもの」を捨て切れない「おっさん」の戯言だと言えるかもしれない。あくまでも限定された時間・空間・関係を、その中での限定された歓びを、限定された存在として生きるのだという抑制されたリアリスティックな態度がもし成立するのならば、それはとても美しいと思う。ただ、全てに人にそれを要求するのは事実上無理だと思われ、だから、人間は動物化して生きることの出来る環境を手に入れたのだから、超越的な次元などもう必要ない、とする発言は、あまりに能天気だとも思う。
●超越的なももの不在とは、言い換えれば「未来」(例えば「革命」のような)へ向かって進んでゆく時間の消失ということでもあると思う。このような言説に触れる時、ぼくはいつも、保坂和志の次のような(衝撃的な)言葉を思いだし、その重さを改めて、増々感じることになる。
《ついこのあいだ夜寝る前の歯磨きをしているときにわかったのだが、ぼくは「明日」という日がくるのを待っていない。》(あとがき『アウトブリード』)
このように流れる時間を、《閉じられた狭い関係内部での愛憎の増進と、短いスパンでの結果(問いかけに対する応答)の要求》に閉じ込められることなく、別の回路に向かって開かれ得る接続を探りつつ生きる技法こそが、ぼくにとっての「芸術」ということなのかもしれない。