●あり得る誤解を避けるために書くが、ぼくが26日の日記に書いた「親しげであるはずのものから浮かび上がる細かな齟齬」というのは、知覚の過剰な(あるいは麻痺した)作用によるもの、または過剰な読み込みなどによる世界像の「ゆがみ(揺らぎ)」、つまり幻覚のようなもののことではない。
例えば、ある世界像の枠組みを揺るがすような科学上な大きな発見というのはおそらく、(その発見を導くに足りる)多くの無名の研究者によって集められた小さな(些細な)基礎的なデータが、ある一定量蓄積されているという条件の元ではじめて可能になる。いかに「天才的」な科学者でも、そのような条件が整っていない時に「発見」は出来ない。そして、基礎的なデータの一定量の蓄積という環境は、決して一人の天才によって実現されるのではない。
科学と芸術とを短絡するのは危険だし、それ以上に、科学上の大きな発見と、ひとりの作家のつくる作品の構造の変質を対置するのは比喩としても著しくバランスを欠いているのは承知で言うのだけど、科学者ではない芸術家にとって、自身の身体-欲望(症候)を振り切り、世界の構造へ一瞬でも触れ得る「発見」(発見とは必然的に、それ以前の自己=システムの破綻を、すくなくとも部分的な組み直しを強いるだろう)へと導いてくれるかもしれない「基礎的なデータ」とは、過去の芸術家の作品や自身の身体-生活の中で得られる知覚(感覚)的経験でしかなく、そこから拾い厚められ、蓄積されるしかない。26日の日記に書いた「親しげであるはずのものから浮かび上がる細かな齟齬」とはそのような意味での「基礎的なデータ」のことだ。だからそれは、過剰に鋭敏になる(あるいは麻痺する)知覚によってもたらされる「感覚的な揺らぎ」とは違う。知覚は、あるいは身体は、常にそのような「揺らぎ=エラー」を含むにもかかわらず、(ある程度は)鋭敏に世界の変化に対応するし、(ある程度は)正確に対象を把握する。だからこそそこに、自らの「身体-欲望(症候)」を(ほんの僅かでも)揺るがす「親しげであるはずのものから浮かび上がる細かな齟齬」が感受可能なのだ。勿論、私の身体の上に蓄積された、それ自体としては些細なものでしかない「親しげであるはずのものから浮かび上がる細かな齟齬」の集積が、必ず「発見」(未知の「構造」の出現)に繋がるとは限らない。それを事前に知ることは出来ず、(自身の身体-生を賭けて)、やってみなければ分からない。(結局、原初的外傷としての「私の症候」が反復し勝利するだけかもしれないのだが、もしそうだとしても、それならそれで良いと言えるくらいに、それ自体を充実したものとするように、自らの欲望=症候の強度を「技術」として鍛えておくのだ。芸術は結局、私の身体-欲望(症候)を「入り口」にするしかないのだし。)既に出来上がっている結果としての「構造(作品)」を(事後的に)分析すること(あるいは図示すること)と、いかに些細なものであっても、未だ無い「何か」を作り出そうとすること(事前であること)では、そのやり方は全く異なる。後者は、行き先(目的)不明の小さな断片が、「予感」のような「信仰」のようなものに導かれて積み重ねられてなされる(あるいは全く偶然になされる)他ないし、それが訪れるのを待機するしかない。
(まあ、精神分析的に言えば、このような、「未知なものの現れに対する待機」のような時間を生きることこそが、典型的に神経症的な「症候」ということになるのだろうけど。だからこそ、ぼくにとって保坂和志の《ついこのあいだ夜寝る前の歯磨きをしているときにわかったのだが、ぼくは「明日」という日がくるのを待っていない。》という言葉が重く響くのかも知れないし。)