保坂和志が、自身のHP(http://www.k-hosaka.com/)の掲示板にミシェル・レリスの日記から引用した書き込みをしていて、そこで次のような凄い文にぶつかった。

1929年6月8日
子供の頃によくあるように、泣きたいほど退屈している。退屈が嵩じ、自分が空虚であるせいで、内臓が、睾丸が、すべての身体器官が身近に感じられる。

まず、子供の頃によくあるような「泣きたいほどの退屈」というのが凄い。おそらく人は、このようなものに出会うのを避けるために、いろいろと用事をつくって忙しく働いたり、趣味や気晴らしに興じたり、他人と共通の話題をつくっては、おしゃべりしたり、時には喧嘩したりするのだ。そしてそれこそが「生」だと思い込む。勿論それは不可避なのだし、それに意味がないということでは絶対にないが、そのような「他者と共有する尺度のなかの時間」とは別種の「時間」に突き当たることがあり、そしてそこから目をそらさずに、そこに踏み留まる時に、《子供の頃によくあるように、泣きたいほど退屈している》という時間が現れるのではないか。それに突き当たった時にそこに踏みとどまるということが凄いのだ。そしてそのような退屈、そのような空虚のなかで、自身の身体器官、特に内蔵や睾丸の存在が、ふいに生々しく立ち上がってくるということだろう。ここで言われる「身近に感じられる」というのはおそらく、いつも知っている親しいものとしてというよりは、まるでそれを初めて発見したかのような生々しさで、眼前に迫ってくるように、感じられるということで、強い違和感とほぼ同義であるような「身近」さなのではないか。切断と密着が同義であるような身近さ、と言うのか。
このような通り一遍の解釈はともかく、このごく短い二つの文の重なりが喚起するものの凄さは、何度もそこに立ち返って考えるだけの手応えがあるように感じられる。そしておそらく、この短い二つの文の重なりが示すものが「凄い」ということは、ミシェル・レリスが「凄い」ということとは少し違うのだと思う。(ミシェル・レリスなんか凄くない、ということではない。)