●昼間、ある方と初めてお会いし、夜、知り合いの展覧会のオープニングに顔を出す。普段、ほとんど籠りがちな生活をしているので、一日のうちに大勢の人と会うと、頭がクラクラする。
●昼間お会いした方に、古谷さん全然喋らないねえ、と言われてしまったのだけど、ぼくは普段からあんな感じなので、決して萎縮していたわけではないのだということをこの場を借りて弁明させて頂きます。お会いしたのは有名な方で、昼間から軽く酔っぱらって喋りまくり、強烈なエロ話を炸裂させるその様子は、ぼくが想像していたその方の像と重なるのだけど、その場に一緒にいた女性は、この姿をファンの女性がみたらどんなに幻滅するか、と言っていて、その言葉で、この方の一般的なイメージはそうなんだ、と、改めて認識したのだった。お会いした店を出てすこし歩いている時に、店で話題に出ていた人とばったりと出くわして、「東京」というのは密度の高い、濃いところなのだなあ、と、なにもないような希薄な「郊外」に生息する者としては、思うのだった。(よく言われることではあるけど、「情報」の密度と「人」の密度ではやはり根本的に違うものだということを、こういう場面で改めて感じる。まあ、ぼくの場合は「人」の密度があまり高くなってしまうことを避けているという側面もあるのだけど。)
●お会いした店でぼくが座った席からは、大きなガラス面からの外の風景がよく見えた。そこは路地の奥の曲がり角のような場所で、視線が突き当たって先に伸びてゆかないので、小さな空間の「溜まり」のように見え、視線の突き当たるところでは緑がゆらゆらと揺れ、小雨で路面や建物や樹がしっとりと濡れていて、時折人が、ぽつりぽつりと傘をさして通りすぎる。店内が薄暗いこともあって、(小雨模様とはいえ)ガラス面からの風景が異様なくらい明るく、近く、くっきりと見えて、その鮮明さに惹かれて、ついつい視線が、その場にいる(ぼくを除いた)3人の人物から逸れて、そちらの方へ向いてしまうのだった。これは全く失礼な話で、これではまるでぼくがその場に退屈しているように見えてしまうのではないかと思い、禁欲するのだけど、どうしてもチラチラと外の方に目がいってしまうのだった。その時なんとなく思い出していたのが黒沢清の『アカルイミライ』で藤竜也が息子とカフェのオープンスペースのような場所で話ているシーンで、藤竜也の顔を捉えたショットが、顔よりも(ピントのあっていない)その後ろの風景の感触を生々しく立ち上げててしまう部分だったりした。確か(記憶で書くので間違っているかも知れないが)このシーンのカット割りでは、最初は二人が話しているのがオープンスペースだということが分からないようになっていて、藤竜也の顔のショットの背景の感触、そこをいきなり通るダンプの生々しさに驚いていると、実は二人がいるのはオープンスペースで外と繋がっていたことが分かる、という構成になっていたと思う。しかしそのような構成とは関係なく、藤竜也の顔を示す(はず)のショットが立ち上げる、その「背景」の存在の生々しさの方に、ぼくは強く惹かれてしまうのだった。
●夜、展覧会のオープニングで、批評家のMさんがぼくのことを人に紹介して下さった時の言葉。「...この人は絵描きなんですけど、メールでも何か面白い事をやっているみたいで、ぼくは全くメールをやらないので分からないんだけども、大学で彼の名前をちらっと出したら、学生が知っていて、それはメールをやっている人ですよ、と言うんで、そういうこともやっているのかと....。」これは決してMさんを馬鹿にして書いているのではなくて、大学の先生として普段から若者に接していながらも、中途半端にインターネットなどというものに色気をみせず、堂々と無関心を通していて、しかも、無関心な人にありがちな紋切り型の敵意からも自由なとらわれない感じが、Mさんの人柄をあらわしているようで、いい感じだったという話で、だからぼくも、「いや、メールではなくて、」というような訂正は、あえてしないでおいたのだった。
●そうそうめったに経験出来る事ではないからという理由で、大変なことを引き受けてしまった。これからしばらくは「大変な」ことになると思う。(なんか今日の日記は曖昧に「匂わせる」ようなことが多い上に、まとまりが全くなくなってしまった。)